足利尊氏

建武の新政は成ったかのように見えたが、天皇・公家を中心とする王政復古の政(まつりごと)を復活させようとする後醍醐天皇と、天皇を君主としながら武家の棟梁として公武合体の政(まつりごと)を行おうとする足利尊氏の思いとは同床異夢の幻想でしかなかった。

後醍醐天皇の建武の新政に不満を持つ東国の武士や旧幕府勢力北条得宗家高時の遺児である時行等の中先代の乱を鎮圧する為に尊氏は建武二年(1335)八月二日、京を出立した。その際尊氏は後醍醐天皇に北条の持つ血統、血筋に対抗するため、武士の棟梁たる「征夷大将軍」と警察権と軍事権などを持った「総追捕使(そうついぶし)」の二つの官職を要求して出陣を願い出ていたのであるが、後醍醐天皇は出陣そのものを認めようとしなかった。

結局、尊氏は前年に任じられていた武士に対する軍事指揮権を持つ「征東将軍」として後醍醐天皇の許可を得ることなく鎌倉に出陣した。尊氏の率いる追討軍の勢いは目覚ましく八月十九日には鎌倉を奪回した。

鎮圧後、後醍醐天皇は再三尊氏に京に戻るよう命じたが、尊氏は先ず旧幕府軍の残党の殲滅やそれまでの武士の慣習を無視した政策に不満を招いていた東国の武士達を鎮撫しておくべきであるとして、そのまま鎌倉に止まって所有地の安堵等の論功行賞を行って帰還に応じる事はなかった。

頼朝と同じように尊氏は東国の土地は既に朝廷から認められているものであるという考え方であった。

しかし後醍醐天皇は尊氏の勝手な行動を「許し難し」として官位を剥奪し、建武二年一一月二十二日、尊氏を朝敵と見なし源氏の一門の御家人である新田義貞に追討の宣旨を下した。

天皇の命を受けた新田義貞の勢いも目覚ましく三河岡崎の矢作の陣も簡単に突破して来て、これを迎え撃っていた弟の直義の身が危ういという報告が届いても、更に新田義貞が箱根まで攻め込んで来ても、なお尊氏は建長寺で出家をしようとしたり、もとどりを切ってまで逡巡して中々動かなかった。

尊氏は寿永二年(1183)十月、頼朝が後白河法皇との交渉の末、東国の支配権を獲得したように、公家の力の強い京より鎌倉で旗を立てるべきではないか、先ず鎌倉を固めてから上洛すべきではなかろうかと迷っていた。

勿論後醍醐天皇に対する畏れ多さと、鎌倉幕府を共に倒したというある一定の連帯感も尊氏を迷わせていた一因であった。皇位は犯してはならない唯一絶対的であるとの考えであった。

尊氏は愈々(いよいよ)追いつめられた結果、君側(くんそく)の奸(かん)・新田義貞を打つということで合点し、建武二年十二月八日、やっと重い腰を上げて出陣を決意した。

元々京の都とは違って武家政権の樹立の気運の高まっていた関東では尊氏立つとの知らせを受けた地方の武士達が時は今とばかり続々と武家の棟梁である尊氏の旗の下へ結集して来た。武家政権の実現をという時代の風潮に清和源氏の嫡流としていつの間にか尊氏は本人の意思とは別に神輿に担ぎ上げられていた。  

建武三年(1336)一月、尊氏軍は京に入った。圧倒的な強さで快進撃を続け上洛したものの、自分達が後醍醐天皇に弓を引いてまで武家政権の再興を図ろうなどとはとても畏れ多い事であって許されるものではない。

逆賊呼ばわりされることだけは避けなければならないと考えていた。尊氏を追って奥州から攻め上ってきた北畠親房(きたばたけちかふさ)や楠木正成(くすのきまさしげ)、名和長年(なわながとし)等の軍勢に攻め込まれて亀岡市の篠村八幡宮に退いた。

ここは三年前の元弘三年(1333)山陰に進軍する途中、鎌倉幕府に反旗を翻し反転して柳の木に源氏の白旗を掲げて兵を集め、六波羅探題に攻め入った懐かしい場所であった。再びこの地に立って尊氏はしみじみ本意が後醍醐天皇に伝わっていない事が無念であった。

戦う大義を持てない尊氏は苦しんでいた。鎌倉幕府の崩壊後の世の中の混乱をどうにかして収拾をしようとすればするほど結果的に後醍醐天皇に対して反旗を掲げる事になっていく事で積極的に戦う意志が失われて行った。

尊氏は、二月丹波路からさらに後退して明石の海岸に出た。その途中で「うち向う方はあかしの浦ながら尚(まだ)晴れやらぬ わが思いかな」と、それでもまだ尊氏は割り切れずに後醍醐天皇が自分を武士の棟梁である征夷大将軍であると認め公武合体の政を行おうとすることを期待し待っていた。

この様な曖昧な尊氏の態度は足利軍全体の士気に影響した。戦う組織として態を成す事は難しかった。

晴れやらぬ思いの中でついに室津の港から西に退いていった。西に逃れ始めた足利軍を見て、この時とばかり新田義貞軍が追撃してきたが、これは赤松則村(のりむら)(円心(えんしん))が播磨の白旗城でくい止めていた。

播磨の赤松則村(円心)は建武の新政に大功があったにもかかわらず播磨国の国司(長官・守護職)には天皇がお気に入りの園基隆(そのもとたか)が任じられ、次官格の播磨介には新田義貞が任じられた。

円心はその下の守護職であった。播磨国の本来の守護職を取り上げられただけでなくもとの佐用荘の地頭職のままとされ、余りにも理不尽な処遇を行った後醍醐天皇を見限って尊氏側に付いた。

後醍醐天皇は円心が護良親王の令旨を得て護良親王の指示の下で動いていただけだと思い込んでいたための処遇であったが、後醍醐天皇には戦いの状況把握を捉えきれていなかった。

尊氏は西下しながらも自らの軍事行動を正当化する為、赤松円心(則村)等の具申によって持明院統の光厳上皇から院宣が奉じられるよう取り計らっていた。

光厳上皇は文保元年(1317)の大覚寺統と持明院統の天皇が交互に在位十年として即位するという和解を反故にして皇室の内部分裂のきっかけを作った張本人は後醍醐天皇であるとの思いがあった。

さらに西下にあたって尊氏は備前の松田氏、讃岐の細川氏、周防の大内氏(長弘)、長門の厚東氏(武実)には協力を取り付けていた。

港湾として戦略上重要な鞆の浦及び尾道浦には足利一族の重臣である今川三郎・四郎の兄弟を配置した。

兄弟には尾道浦では光明寺(尾道市土堂町)に陣取って地元の有力者との根回しをさせた。安芸の小早川祐景には自領を安堵することで協力させるよう手を打った。この頃には尊氏は自らの立ち位置がはっきりと決まりつつあった。

最早この世の流れは武士の利益を保護する政治でなければこの乱れた世の中は収まりが付かない、世を正す御政道を成すのは自分達しかいないと確信を持つようになっていた。

尊氏は後醍醐新政権のもとで取り上げられた土地所有権を元の持主に返付するとの「元弘没収地返付令」を発布して反建武の中興の態度を鮮明に示した。

この事で更に旧北条方の御家人等含めて全国の多くの武士が尊氏を支持し、尊氏の旗のもとへ帰属させることとなった。西に退きながらも尊氏の信望は益々確かなものになっていった。

それでも西下の途中で備前の児島に引っ込んでいた後醍醐天皇の忠臣である児島高徳(備後三郎)の動きにも気になるところであった。

又、備後の吉備津神社南側の丘陵を居城(桜山城)として、元弘の変に応じて楠木正成等の挙兵に呼応(こおう)して反幕府軍としてこの地で立ち上がった櫻山慈俊(これとし)一族は近隣の豪族たちを味方につけて急速に勢力を拡大し一時は備後半国を抑え安芸や備中にも進出を伺う勢いを示していた。

尊氏は櫻山等の残党の動きに関しても情報も集め、戦いに備えなければならなかった。(現在、吉備津神社の随身門北側に桜山神社が建立されていて櫻山慈俊(これとし)を祭神として祀られている)

又、笠岡沖の塩飽諸島には塩飽海賊がたむろしていた。

芸予諸島を中心に活動をしていた村上海賊は既に足利軍にちょっかいを始めていた。瀬戸内海に巣くう海賊達の向背(こうはい)は戦いの成否をも決めかねないものであった。

備後の尾道浦は嘉永元年(1169)大田庄の荘園の米の倉敷地(積出港)として出発していたが、既に瀬戸内海の物流の中継基地として大いに繁栄していた。

その尾道浦で高野山領の大田庄の預所・地頭として一国の守護並の権勢を誇っていた和泉法眼は問丸(現在の問屋)としても紀州、奈良、京都、堺などと交易を行い社会情勢にも明るかった。

その和泉法眼の後ろ盾もあって尾道浦を舞台にして活躍していた富豪道蓮(どうれん)は若いながらも卓越した海上輸送能力と経済力をもってその勢力は瀬戸内海全域に及んでいた。

それだけに世の中の流れにも極めて敏感で豊富な情報量と広い目を持っていた。櫻山等の残党が反尊氏としての狼煙を挙げ、負け戦で退いてきている足利軍にいつ攻撃を仕掛けてもおかしくはない状況であったが、和泉法眼等は尊氏を支持した。

今川兄弟の説督が功を奏したとも言える。馬には精通していても海には縁の遠かった関東武士である足利軍にとって瀬戸内海の激しく複雑な潮流や岩礁などの障害物の多い海域での航行、春から夏にかけて発生する濃霧の中での航行、島嶼(とうしょ)部での海戦、又、兵站(へいたん)の確保なども西下するにあたって様々な課題を解決する必要があった。

こうした問題も一挙に解決させる彼等の支持は尊氏にとって有難かった。

建武三年(1336)二月十四日、鞆津(広島県福山市)で宿舎としていた小松寺の尊氏の所にやっと待ち望んでいた吉報が届いた。

持明院統の光厳上皇から「諸国の朝敵を退治すべし」との院宣(いんぜん)を醍醐寺の三宝院賢俊(けんしゅん)より承った。尊氏はこれで錦の御旗を掴み、晴れて朝敵という汚名を雪ぎ足利軍の軍事行動が正統化されたことを天下に知らしめる官軍としてのお墨付きを得たことになった。

今すぐにでも引き返して北畠親房(きたばたけちかふさ)や楠木正成(くすのきまさしげ)の賊軍と戦うということも選択肢として考えられたが、尊氏は次にどのような行動に打って出るべきかを足利軍の幹部と合議するため二月十七日、御座船に錦の御旗を押し立て尾道浦に入港した。

その時源氏の守り神である一羽の白い鳩がどこからともなく飛んで来て一行を浄土寺まで道案内をしたという話が現在も浄土寺では語り伝えられている。

この事は尊氏にとって西航が吉兆となったというだけでなく、尾道浦の浄土寺にとっても御本尊十一面観音菩薩信仰の霊験(れいげん)のあらたかさを広く世に知らしめる前触れともなったと考えられたためであろう。

尾道浦では浄土寺の空教和尚や和泉法眼や道蓮等の出迎えの挨拶もそこそこに、嘉暦二年(1327)に道蓮・道性によって再建されていた浄土寺観音堂で幹部を集め軍議を開いた。

今すぐ京都に攻め上(のぼ)るべきか、九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を本拠として勢力を拡大していた南朝方の菊池氏を叩くことを優先しておくべきかで議論は伯仲した。十三代菊池武重は後醍醐天皇に肥後守(肥後のトップ)に任ぜられた。

その弟の菊池武(たけ)敏(とし)も尊皇思想は楠木正成にも劣らなかった。

浄土寺本堂

足利軍が官軍として尊氏が清和源氏の嫡流・武士の棟梁として天下に覇をとなえるためには、ここで急いで京都に攻め入る事よりもまず菊池氏を打ち破って尊氏支持勢力をまとめ、足腰のしっかりした基盤の強化を図っておく事の方を優先すべきであるということに決した。

この会議で標的が明らかになり足利軍の士気は一層高まった。その後、浄土寺において空教和尚が導師となって足利軍の戦勝祈願が行われた。

尊氏は浄土寺に備後国の得良郷(加茂郡大和町)の地頭職を寄進すると共に因島(尾道市因島)の地頭職も安堵して謝意を示した。

因島の地頭職は瀬戸内海を航行する制海権を確保する上で重要な軍事拠点であった。

二月十九日、一行が尾道浦を出港するにあたって吉和浦(尾道市吉和)の漁師船団が九州までの水先案内役を買って出て西下の案内をして助けた。

この頃、後醍醐天皇の側近として討幕運動に参画し、建武政権が成った後(のち)は恩賞方筆頭となり、雑訴決断所寄人などの要職を担った藤原藤房は論功行賞の不公平について後醍醐天皇に諫言していた。

しかし後醍醐天皇に受け容れられなかった為、突然出家して行方をくらました。

又、建武の新政の立役者の一人である楠木正成は尊氏の出自の良さや政策手腕や武士の中での人望から後醍醐天皇に「新田義貞は見限って尊氏と和睦し公武合体の政(まつりごと)をすべし」との献策をしている。

ところが勝ち戦に酔いしれていた天皇には一笑に付されてしまう。政治信条において尊氏と正成とは志(こころざし)は同じであった。

後醍醐天皇は醍醐天皇の延喜の治世の天皇親政の政治を理想として、武士は公家の警護役、クーデターの鎮圧程度ぐらいにしか考えていなかった。

この度の論功行賞でも公家側に有利な判定をして、前線で生き死にの戦いをした武家方には大いに不満が残った。

そういった状況を冷静に見ていた藤房や正成の提言は自尊心の高かった後醍醐天皇には全く受け入れ難いものであった。

保元の乱も平治の乱もしかり、この建武の中興が成ったのも武士が力を無くしては有り得なかったとは考えられなかった。

天皇に訳もなく所領を取上げられた武士の心は完全に天皇から離れていた。庇(かば)ふ所を遺(わす)るである。

建武三年(1336)二月二十二日、長門の国赤間の関に着船したが、鎌倉に本格的な武家政権を開いた源頼朝に憧れていた尊氏は源平最終決戦のこの地で、源頼朝が再起を期して旗を揚げ、後白河法皇の第三皇子以仁王(もちひとおう)の令旨を奉じて大庭景親ら平氏方と戦った緒戦の石橋山(現小田原市)で大敗を喫して、船で海を渡って安房(あわ)の国に逃(のが)れていった時の事を考えていた。

その姿を今の自分に重ね合わせていた。負けて尚出自の良さから反乱の炎は一気に関東に広がり草木が靡(なび)くように源頼朝の下に結集して来て遂に本願を叶えた事を思って尊氏は目の前の壇ノ浦の風に吹かれながらしみじみと感慨に耽っていた。

尊氏は思わず凛凛とした確信を感じて「今度は俺だ」と身震いしたのは吹く冷たい風だけのせいだけでなかった。

九州に入った尊氏は三月二日、筑前(福岡県)の多々良浜(たたらがはま)で苦戦はしたが南朝方の菊池武敏軍を打ち破り、四月三日にはもう東上を開始した。

多々良浜の勝利の結果、南朝方と対立しつつあった豪族達は続々と尊氏の傘下に加わってきた。五月一日には厳島神社に入り、三日まで参籠し戦勝祈願を挙行した。

その時厳島には多くの軍勢が尊氏を迎えた。結集した船の数は七千余艘にも及んでいた。

その後、東上する主力部隊は向島と因島との間を流れる布刈瀬戸を抜け鞆津へ船を進めたが、尊氏の御座船と参謀を乗せた小部隊は尾道水道から浄土寺に入った。

尊氏は浄土寺の観音堂に幹部を集め、戦勝祈願の法楽和歌の会を催した。

各々が観音経の一句一句の偈(げ)文(ぶん)をさぐって詠題として和歌に祈りを託した。尊氏の「偈」は「弘誓深如海」で「わだつみの ふかきちかいの あまねさに たのみをかくる のりのふねかな」 (この御座船には多くの願い事を積み込んでいるが、この海の深さと同じぐらい観音様を深く深く信仰しているのだから、きっとこの御座船はその願い事を成就してくれる観音様の船に違いない) と余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)であった。

現在、浄土寺観音堂には尊氏が着座していた本堂(国宝)右側の脇陣を足利尊氏参籠(さんろう)の間と呼んでいる。

又、浄土寺には尊氏の花押が押された和歌を含む観音経偈三十三首の法楽和歌(国指定重要文化財)が残されている。

吉和太鼓踊り

尾道浦を出発するのにあたって、尊氏は浄土寺の観音堂の扉の戸板を戦いに備えて弓矢よけ用の盾板として外させ御座船に積み込ませた。

この事は尊氏の観音信仰の深さというだけでなく、配下の者達に我が軍にはきっと観音様の御加護があるだろうと思わせる事になった。

又、尊氏は九州へ下る際に水先案内をしてくれた吉和浦の人々には内海のどこでも漁労が出来る特権即ち漁業権を認可することも忘れなかった。

吉和浦の人々は感激して戦勝祈願にと鉦や太鼓を打ち鳴らすだけでなく、手の空いた者は船端を叩き大声を張り上げて声援を送り、鞆の沖合いまで足利軍を見送った。

この吉和浦の漁民達の踊りは現在広島県の無形民族文化財「吉和太鼓踊り」として「吉和太鼓おどり保存会」によって隔年の八月十八日に浄土寺に奉納されている。

尊氏が戦いに臨む際に歌われる舟歌だけあって尊氏の思いを注ぎ込んだ戦いや甲冑などに関する台詞が多く採用され、歌の途中でエーイ・エーイと掛け声を掛ける勇ましいものである。

足利軍に加勢して西下し、多々良浜の戦いで大功を果たした備後国椙原保の豪族・杉原信平(すぎはらのぶひら)、為平(ためひら)兄弟に対して尊氏は信平の甲冑の背につけた母衣(ほろ)に「西国一番の働き比類なきものなり」と自ら書き記(しる)して賞賛した。

兄弟はこの後も足利軍と共に行動して湊川の戦いだけでなく、京にも出陣して数々の武勲を立てている。

尊氏はその恩賞として兄弟に備後国木梨庄十三箇村(小原、梶山田、木梨、市原、白江、三成、猪子迫、栗原、吉和、木原、久山田、後地、尾道)を与えている。

その後、兄弟は建武四年(1337)木梨(尾道市木之庄町)に鷲尾山城を築いてこれに拠り、子孫にも杉原元恒など人物が出て尾道浦の守護代も務め、高野山領の年貢米の請所となっていた浄土寺の外護にもあたっている。

尊氏は鞆の浦より軍を陸海二手に分けて湊川を目指した。「太平記」によると「鞆の浦より直義を大将に二十万騎を差し分ちて陸上を、尊氏は一族四十余人、高家一党五十余人、上杉の一類三十余人、外様の大名百六十頭、兵船七千五百余艘を漕双べて、海上をぞ上せられける」とある。

建武三年(1336)五月二十五日、摂津(兵庫県)の湊川で楠木正成軍を討ち果たし、宿敵新田義貞も敗走させ、五月末には上洛して京都を制圧している。十一月には尊氏は後醍醐天皇を譲位させて持明院統の光明天皇を擁立した。

十二月、後醍醐天皇は密かに吉野に移り、吉野で依然天皇であることを主張したことで南北朝の対峙が始まることとなったが、この後醍醐天皇が吉野を南朝の本拠地としたことについて尊氏は「天下は落ち着くべきところに落ち着くものだ」とどこか世を覚めた目で俯瞰(ふかん)している。

尊氏にとって絶頂期というべきこの頃、尊氏は清水寺に(京都市東山区)に「もし自分にこの世で与えられる果報があるとしたなら、その果報は全て弟・直義に譲って欲しい。

何(なに)卒(とぞ)直義の身が安穏であるよう御加護を賜りたい。」との願文を納めている。尊氏の大らかで欲の無いこんなところに多くの武将達の心を惹き付けさせていたのであろう。

建武三年(1336)十一月七日、尊氏は武家政権の基本方針である「建武式目」を発表、暦応元年(1338)八月十一日には光明天皇から征夷大将軍に任ぜられて二条高倉に室町幕府を開いた。

一方、吉野に逃れた後醍醐天皇は「ここにても雲井の桜咲きにけりただかりそめの宿と思うに」と暫(しばら)くここで耐えていればと都に帰還する事を念願しながらも遂に果たせず、「玉骨(みこつ)は たとえ南山の苔に埋(うずも)るとも 魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほっけつ)(宮城)の天を 望まんと思う」と悔しさを滲ませながら暦応二年(1339)八月十六日吉野で崩御される。

「君子南面す」ではなく御陵はこの遺言の如く京の方向である「北」を望んで造営されている。

後醍醐天皇の崩御に対して尊氏は当時仏教界の第一人者であった夢窓国師の進めによって天皇の菩提を弔うため光厳上皇の院宣を受けて嵯峨野に天龍寺を建立した。

天龍寺の正式名称は「霊亀山(れいきざん)天龍資聖禅寺」であるが「天龍」という言葉は、弟の直義が大堰川(おおいがわ)(渡月橋より上流)に巨大な金の龍が天に昇る夢を見たことによるとされ、「資聖」というのは後醍醐天皇の怨念を鎮め助け奉(たてまつ)るとの意味である。

もともとこの地には南禅寺を開いた大覚寺統(南朝)の初代天皇である亀山天皇の離宮があった場所で条件が整っていた。

幕府はこの造営資金を得る為、貿易船「天龍寺船」を元に送り出している。尾道浦はこの天龍寺船団の交易の拠点として大いに賑わった。

暦応二年(1339)には尊氏は怨親平等(おんしんびょうどう)(仏法の世界には敵味方の違いはない、怨親ことごとく平等ならんことを願う)との夢窓国師の勧告に従って国家の安寧と護持、敵・味方を問わず北条氏討伐以来の戦乱で亡くなった大勢の人々の霊を弔うべく全国に一寺一塔(安国寺と利生塔(りしょうとう))を建立することを決めた。

備後国では鞆の浦に安国寺(この安国寺は鎌倉時代に法燈国師を開基としてここに創建されていた金宝寺を利用したものである。

この安国寺は戦国時代一時衰退するが後に安国寺恵瓊(えけい)が再興している。現存する仏殿は唐様建築で下り棟の止め瓦には見事な龍頭瓦が配され、庭園は重森三玲氏が復元している)を、利生塔は尾道津の浄土寺領内に五重塔が新築された。

瑠璃山の中腹に聳え立つ五重塔は尾道浦にはびこっていた海賊への威圧と順撫とする狙いもあったとも言われている。(浄土寺にはこの五重塔の由緒書きが残されている。

この利生塔は現在の尾道市生涯学習センター(元筒湯小学校跡地)のグランドの中央あたりに建てられていた) 尊氏は貞和元年(1345)この建立費として櫃田(ひつた)村(三次市君田、優良な砂鉄の産地)の地頭職を浄土寺に寄進している。

この利生塔は江戸時代初期に火災により焼失するが、浄土寺にはこの塔に取り付けられていたという鉄製の燈籠(とうろう)が二基残っている。

又、弟の直義が国家と民衆の安寧を願ってこの利生塔に寄進したという京都の東寺(京都市南区)にあった仏舎利(釈迦の骨)が一粒納められた金銅製の宝珠形舎利容器も残っている。

直義は又、浄土寺領内及び寺辺での殺生禁断を命じる書状を出すなど特別に外護している。浄土寺にはこの他、尊氏により母の菩提を弔う為に書かせたという「如意輪観音画像」や陣中肌身に付けていた「陣中念持仏」なども奉納されている。

更に尊氏は五重塔の塔婆料所として金丸名(かねまるみょう)(福山市新市町)・上山村(府中市)の地頭職と草村(府中市新市村)の公文(くもん)職(荘園の事務を司り、年貢の徴収などを行う部署)を浄土寺に寄進して手厚く保護している。

その他、尾道浦には浄土寺だけでなく西江寺(尾道市東久保町、現西郷寺)、常称寺(尾道市西久保町)、天寧寺(尾道市東土堂町)等の寺の建立、再興、浄財の寄付等(など)を行っている。

尊氏にとってこうした備後の鞆の浦や尾道浦への外護(げご)の目的は足利軍の反転大勝利のきっかけとなった土地への思い入れというだけでなく、鞆の浦や尾道浦の土地や人々の安寧と共に、瀬戸内海の中央部にあって「潮待ち」「風待ち」の自然任せの航海を強いられていた当時の交易港として大きな発展を遂げていた鞆の浦や尾道浦を幕府の交易港として物流の拠点として活用しようとする狙いや、有事の際には尾道浦の大田庄の政所・倉敷地を兵糧米貯蔵庫として活用しようとの思惑もあった。

実際に天龍寺船団の拠点となったと言うだけでなく、足利義満の時代になってからも明との交易が開かれると、鞆の浦や尾道浦は勘合貿易の「対明貿易船団」の寄港地として整備され大きく飛躍することになった。

特に尾道からは神刀としてもてはやされた日本刀十数万振り(本)が輸出され、明国からは銅銭が輸入された。

室町幕府の幕政を推し進めていく中で、将軍方(尊氏・高師直(こうのもろなお))と副将軍方(直義・直冬)と宮方(南朝)が入り乱れ、政局は混迷の度を深くしていった。状況に順応することの中から政治の流れを汲み取ることにかけて特異な才能を発揮して時代を生きてきた尊氏であったが、延文三年(1358)四月三十日、背中に出来た悪性の腫物が原因で五十四歳の波乱の人生の幕を閉じた。遺骸は京都衣笠山の麓の等持寺(京都市北区等持院北町)に葬られた。

等持院境内に樹齢四百年になる椿の大木があるが、この老木に咲いて緑の苔の上に落ちて枯れていく赤い椿の花に何故か尊氏がだぶって見える。どうして自分が大猿と揶揄(やゆ)されなければならないのか、何故未だに朝敵の汚名を着せられているのかについて、是非を明らかにしたいと椿の花に託しているのではないか。

分かって貰う迄は何としてもこの木を枯らす訳にはいかないということなのだろうか。それとも分かる人にだけ分かってもらえればそれで良いということなのだろうか。椿の花の花言葉は「控えめな美しさ」である。

小松寺(福山市鞆町後地)

安元元年(1175)平清盛の長男重盛の創建によるとされている。

元亀4年(1573)七月、足利十五代将軍足利義昭は織田信長に京都を追放されたことにより室町幕府は事実上滅亡したとされている。

その後義昭は諸国を流浪の果て、天正四年(1576)2月、毛利を頼って流れ着いたのがこの鞆の小松寺であった。義昭が毛利輝元等に庇護されていたこの時期の室町幕府を「鞆幕府」とも呼んでいる。

足利尊氏が建武三年(1336)二月、この小松寺で持明院統の光厳上皇からの朝敵討伐の院宣(いんぜん)を賜ったことから「足利氏は鞆で興き、鞆で亡んだ」との言い方もされている。

小松寺の山号は萬年山、御本尊は観世音菩薩。残念乍ら今は往時の盛況の跡は偲べない。

浄土寺(尾道市東久保町)

浄土寺の歴史は古く推古天皇の616年聖徳太子の草創と言われている。正式名称は「転法輪山大乗律院荘厳浄土寺」という。なにやら修験道場のようであるが、現に奥の院に至る山道には修験者が岩に取り付けた鎖場もある。

江戸時代になって皇室との関わりが深く「御寺(みでら)」とも呼ばれる京都の泉涌寺(せんにゅうじ)(京都市東山区泉涌寺山内町)に属し、現在に至っている。文治二年(1186)大田庄の荘園が高野山領になると浄土寺は後白河法皇の勅願所となっている。

鎌倉時代の終わり教線を広めようと尾道浦に滞在していた律師・叡尊の弟子である定証(じょうしょう)上人が、当時荒れ寺となっていた浄土寺の再興を里人から懇願され、尾道浦の富豪・光阿弥陀仏の援助を得て、嘉永二年(1304)落慶法要を行っている。

ところが、正中二年(1325)大火により、堂宇をことごとく灰燼(かいじん)に帰してしまったが、嘉暦二年(1327)、尾道浦の豪商道蓮・道性夫婦によって観音堂(現在・本堂、国宝)、嘉暦三年(1328)には多宝塔(国宝)、暦応二年(1339)には利生塔(五重塔・現在焼失)、貞和元年(1345)には阿弥陀堂(重文)等々の堂塔が建ち並び、備後国随一の寺院として人心を掌握するところとなって今日に至っている。

現在浄土寺には尊氏の供養塔と伝えられている宝筐印塔(ほうぎょういんとう) (墓碑塔)と弟直義の供養塔と言われる五輪塔が仲良く並んで立っている。

足利尊氏墓所(等持院)

浄土寺の由緒書によると「尊氏の供養塔と伝えられている宝筐印塔は高さが百九十センチで、塔身の四方に金剛界の四仏の種字を刻してあり、基礎・基壇の間に反花座(かえりばなざ)を設け、基礎の側面には大きく見事な格(こう)狭間(ざま)が作られている。南北朝時代における中国地方の宝筐印塔の代表作である。」と書かれている。

浄土寺の前住職・小林海鴨師は先年京都泉涌寺の長老(管長)もされていた方である。

等持院(京都市北区等持院北町)

臨済宗天龍寺派。山号は万年山。本尊は釈迦牟尼仏。暦応四年(1341)足利尊氏が夢窓疎石を開山に請じて衣笠山南麓に創建した。

尊氏は戦乱が治まり天下が自分の手に帰したならば、必ず三つの寺院を建て、国家の安寧を祈るつもりであると語っていたが、不安定な状態が続き、なかなか三つの寺を建てられそうになかった。

そこで尊氏は、禅僧・古先印元(こせんいんげん)を開山として建てたのがこの等持寺で、寺号には三つの「寺」という字が入っていることから、これで願いを叶えることが出来たと尊氏も喜んだと言われている。

延文三年(1358)尊氏の法名「等持院仁山妙義大居士」から寺名も等持寺から等持院と改められた。歴代の足利将軍の廟所に相応しく十刹の第一位となり隆盛したが、幾度かの災禍にあい現在の伽藍は文政元年(1818)に建立されたものが中心となっている。(等持院由緒書による)

霊光殿には尊氏の念持仏とされた地蔵尊を中心に右に達磨大師と左に夢窓疎石の像が両脇に祀られ、尊氏以下歴代足利将軍の木造(五代と十四代を除く)が安置されている。

等持院殿(尊氏)の木造の正面に、何故か四十二歳の徳川家康公の木造が置かれている。大徳寺総見院の木造織田信長座像のお顔に似た六代将軍義教の神経質そうなお顔も印象的である。

方丈北側の池全体が蓮の形をした芙蓉池と心字池との間に尊氏の墓である宝筐印塔(ほうぎょういんとう)がある。

塔の台座は四面に格狭間(こうざま)があり、宝瓶(ほうびょう)に蓮花(れんげ)を挿した紋様があって室町時代の形を示している。

三方を綺麗に手入れされた植木に囲まれるようにその塔は建っているが、二百年以上の足利幕府を開いた人物の墓としては驚くほどこじんまりとしたものとなっている。

現在アメリカのメトロポリタン美術館には尊氏が篠村八幡宮に奉納したという鎧が収納されている。その鎧の板の部分には「不動明王」が描かれている。

「不動明王」は戦勝祈願の印とされているが、尊氏がこの「不動明王像」を用いたのは、政治判断をするのにあたって出自の良さからか「仁愛」を成して「義」に報いることを優先してしまうことで、合理的に且つ大胆に素早く割り切ることが出来なかった裏返しの様な気がする。

尊氏の考えていた「仁愛」や「義」の心が邪魔をして様々な葛藤を抱えながら生き抜かなければならなかった。

尊氏の生涯を見るとこの不動明王に縋(すが)り付こうとした思いが感じられてならない。足利尊氏の先祖は源氏の棟梁八幡太郎義家であるのみならず先祖の妻は源頼朝の義妹であり鎌倉幕府の御家人の中でも筆頭格の家柄であった。

北条得宗家からは正室を迎え嫡子の名に一字を与えられて足利高氏の「高」は執権北条高時の「高」を与えられ、周りの人々に大事にされて育った。

晩年尊氏が詠んだ「いそじまでまよひきにけるはかなさよただかりそめの草のいほりに」と四十にして惑わずどころか五十までも尊氏の悩みは尽きなかったと言うこの歌にも尊氏のいかにも人間的で正直で素直な人柄が伺える。

「逆賊」「朝敵」というにはそぐわない。一つ一つ、その都度の場面場面で尊氏の政治判断が全て正しかったとはしないが、迷い苦しみながらも激動する時代を一生懸命に生きて確実に時代を鎌倉から室町へという新しい歴史の一ページを開いていった。

それは間違いなく大局を見通す事が出来ず時代の流れに逆らった反動の道ではなく、正に時代の要請であった。

等持院の境内を散策していると北側にある大学の構内から学生達の元気な声が聞こえて来るが、その声に尊氏が「きっと君達もこれからの人生で俺以上に色々悩み迷う事があるだろうが、誤解を恐れずにしっかり前を向いて進んで行って欲しい。

次の新しい時代を造るのは間違いなく君達なのだから」とそんな風に言っているように思えて胸が熱くなって来た。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

尾道の観光スポット

春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

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