兵庫県朝来市(あさごし)和田山町竹田にある天空の城「竹田城跡」は、但馬(たじま)の国の守護でもあった山名持豊(宗全)が、播磨・丹波から但馬への侵入路に位置する要衝のこの地に嘉吉年間(1441~1443)に出石城の出城として、十三年を費やして築いた城である。
宗全は永享三年(1431)、当主満時が没したため山名家を継ぐと同時に、山名氏の四天王(垣屋、八木、太田垣、田結庄)と言われた家臣の一人、太田垣新左衛門誠朝(のぶもと)に命じてこの城を築かせ、初代城主に任じた。
太田垣氏はその後七代にわたって城主として竹田城を治めている。この誠朝の縁者に繋がる太田垣因幡(いなば)守(のかみ)光(みつ)景(かげ)の孫の太田垣甲斐守は播磨国の本徳寺において出家し、「行栄」と名乗って播州阿賀(あが)で道場を開いていたが、秀吉の侵攻に伴い、戦乱を避けて尾道に下り、天正元年(1573)五月、久保の宮崎(現在の尾道市久保二丁目、亀山八幡宮の門前界隈・爽籟(そうらい)軒(けん)辺り)に小庵を結んだ。
当時この地方には浄土真宗はまだ広まっておらず、行栄は近郊の住民に医業を施して生業(なりわい)とし、その傍(かたわ)ら念仏布教を行っていた。
行栄の子念西の時代になってやっと真宗の教線が開かれ、尾道での総道場を開くことを許され、土堂町寺(てら)小(しょう)路(じ)(尾道市土堂二丁目の村上医院西側の石畳(いしだたみ)小路(しょうじ))に一宇を建立して福善寺と称した。寛永七年(1630)、第三世行尊の代になってこの福善寺を現在地(尾道市長江一丁目)の丹花(たんか)の丘陵に移した。
この頃には本願寺直参の「一家(いっけ)衆(しゅう)」に加えられるとともに、旧九条関白家より太政大臣九条兼実の位牌を収めた菩提寺格寺院にもなっている。そして江戸末期の第十一世住職性圓は御内儀を烏丸大納言家より迎え入れている。

福善寺山門の菊丸紋
烏丸家(からすまるけ)はもともと藤原北家日野家の分流で日野資(すけ)康(やす)の三男日野豊光(とよみつ)を祖としており、家紋は「鶴の丸」で累代(るいだい)歌道を家業とし、中立売御門之内東側(京都市上京区)に住まいしていた。
日野豊光は室町時代の公(く)卿(ぎょう)で権中納言、検非違使別当などを経て足利四代将軍義持(よしもち)の側近として重用された。
姉の康子は三代将軍義満の正室として、妹の重子も将軍義持の正室として嫁いでいた。そして豊光は六代将軍義教(よしのり)のはからいで「烏丸(からすまる)」を称し、烏丸家の祖となった。
その第十九世が従一位権大納言烏丸(からすまる)光政(みつおさ)で、その令嬢が性圓の室である。又、子息の烏丸(からすまる)光(みつ)徳(え)は王政復古、戊辰戦争に功績があり、東京府知事にもなっている。
ちなみに第九世烏(からす)丸光(まるみつ)広(ひろ)は後水尾天皇からの信任も厚く、細川幽斎から古今伝授を受け二条派の歌人として歌道の復興に力を注いでおり、将軍徳川家光の歌道の指南役も勤めている。
この烏丸光広の戒名「法雲院」にちなんで左京区太秦蜂岡町十七には烏丸家の菩提寺「法雲院」(臨済宗永源寺派)が建てられている。

福善寺本堂
「ええもんは福善寺」と尾道の名所にもなっている山門は、四(よつ)脚門(あしもん)で本瓦葺の切妻造となっており、軒丸瓦の円形瓦頭(がとう)は烏丸家(からすまるけ)の家紋である鶴丸の文様となっている。
欄間には豪壮な龍の彫り物が施され、門扉にも烏丸家との由緒を物語る精巧な鶴丸の紋、柱間(はしらま)には透かし彫りの獅子、木鼻には見事な象や獅子の彫刻がなされている。
これらは烏丸大納言家から御内儀を迎えた時の結納品で、この木組み一式は細部の要領を承知した京都の名工によって京都で製作され、運ばれてきた部材を尾道の大工が当地で組み立てたものである言われている。
山門をくぐり境内に入ると右側に「鷲(わし)の松」と名付けられている名前の通りあたかも大鷲が天に羽ばたこうとする形をした直径約三・五メートルの根回りをした樹齢四百年の松の銘木が目に入ってくる。西に向かって二〇メートルほど伸ばした枝ぶりは見事である。
この松は昭和三十六年九月に尾道市の天然記念物になっている。枝の下には文政年間に制作された石工善三郎によるところの簪(かんざし)燈(どう)籠(ろう)が置かれている。
円形の笠に丸みを帯びた火袋、正(まさ)に「かんざし」を意識した四つの長い足を持つこの燈籠は尾道石工の名品である。
正面玄関の唐破風の鬼瓦は大田垣家の家紋である木瓜(ぼっか)紋となっている。又、隣の鼓楼の大棟の鬼瓦は同じく木瓜紋、降棟の先端は鶴丸紋、隅降棟の先端は木瓜紋と配されている。
本堂前庭に享保三年(1718)の火災で焼失した庫裏の大棟を荘厳していた見事な木瓜紋の鬼瓦が置かれていたが、現在は収納庫にて保管されている。庫裏は切妻造りで、梁行の妻飾りに蟇股を五つ横に並べて、漆喰の壁の白さとコンストラストをなしていて美しい。鬼瓦は当時より小ぶりであるがやはり木瓜紋となっている。
本堂は入母屋造りで本瓦葺、大棟、降棟・隅降棟・稚児棟に向背を備えている。福善寺の山号は光明寺で、御本尊は阿弥陀如来立像である。
その山号の由来にもなっている秘蔵の「光明本尊」(広島県重文)は鎌倉末期の図画本尊で、題目は「南無不可思議光如来」と書かれており、初期の浄土真宗教団において礼拝の対象とされていたもので代々門外不出とされている。
東日本に多く、西日本では余り見受けられない珍しい存在であるという。本堂内陣の襖絵は、幕末期の尾道の閨秀画家平田玉蘊が西本願寺御影堂の雪中松竹梅の襖絵(吉村孝敬作か)を素描して帰り、この本堂で画筆を揮(ふる)った筆勢(ひっせい)雄渾(ゆうこん)の大作「雪中の松竹図」である。当時の和尚は彼女が常人と違ってとんでもない所から描き始めたので驚いたという話が伝わっている。
流石に経年の劣化で絵の具が剝れて落ちて来ていたので令和四年(2022)京都の絵師に依頼して修復をしてもらったことで、江戸時代(1831年)白井華陽が出版した「画乗要略」で「筆法(ひっぽう)勁秀(けいしゅう)ぶびをもって匠となさず」(小手先の媚びた絵で無く、大変力強い絵を描く)との彼女の絵が再び蘇り、堂内の荘厳さを一層確かなものにしている。
福善寺寺域全体が中世山城「丹花(たんか)城(じょう)」跡で、裏山の墓地には足利尊氏に従い筑前多々良浜の合戦で勲功のあった杉原信(のぶ)平(ひら)を祖とする木梨杉原家一門の出であった丹花城主の持倉修理太夫父子の墓と伝える三メートル近い巨大な石造五輪塔(尾道市重要文化財)二基が隣り合って建っている。
持倉氏は当時代官として尾道を治めていたが、木梨杉原家が毛利輝元の命により周防国に移ったので、在所である木梨村(尾道市木ノ庄町)に引き上げている。
元々この五輪塔は丹花坂にあって明治二十四年の鉄道敷設により現在の位置にまで移設されたものであるという。然しこの五輪塔が造られたのが鎌倉時代後期とされていて持倉親子が活躍した年代と合致しない。今後の調査を待ちたい。
この辺りの江戸時代の墓所の慣習は広い敷地が必要となる埋葬する墓(当時は土葬であった)は郊外に建て、比較的敷地が狭くても良いお参りする為の墓所は家の近くの墓地にとの両墓制を取っていたとも言われ、この福善寺の裏山の墓所はお参りする為の墓所・おがみ墓となっていた。
そのため墓と墓との間隔がひどく狭くなっていて裏山全体に墓が隙間の無いほどびっしり建てられている。墓石に刻まれた墓碑銘を見ると苗字帯刀が許されなかった時代に屋号と名前或は職業名と名前だけが彫り込んであるだけの商売人の墓碑が多く見られる。
当時尾道が港を中心とした活気に溢れる商工業都市として大いに賑わったことを伺い知る事が出来る。
広島市安芸区中野に本社を置く美味しいパンが評判のタカキベーカリーの始祖の墓所もある。小津安二郎監督の「東京物語」には山の頂上まで続くこの墓所の風景がカットインされている。大林宣彦監督の映画「ふたり」でもここを舞台にしている。

赤城の巨石
「太田垣」氏と備後との関連は応永八年(1401)、二月三日、備後の守護であった山名宗全の父である山名時熙が佐々木越前入道と共に太田垣通康を備後守護代に任じたことにも由来している。
この頃高野山を領主とする荘園大田庄は山名氏の「請地」となり、大田庄の倉敷地であった尾道浦も実質的に山名氏の支配下に置かれていた。
尾道浦は対明貿易の基地にもなっており、ここから上る収益は莫大なもので守護山名氏はこの地を支配するために尾道の官寺西国寺を外護するとともに、讃岐の細川氏と張り合うために太田垣氏を守護代に任じ備後国内外に睨みをきかせていた。
尾道バイパスと県道363号線の交差点(向峠ガード南側)をバイパス側道に沿って西進すると左手に見えてくる小高い丘に大田庄方面からの街道の守りを固め、守護所尾道の鍋蓋として太田垣氏が築いた「赤城」があった。
現在住宅地(しまなみタウン)となっており、その住宅街(尾道市東則(ひがしのり)末(すえ)町(ちょう))の遊園地横には「赤城」の石垣に使われていたと言われている巨石が残っている。

竹田城址
その巨石の前には二つの祠がお祀りされて置かれている。山名氏は宗全・政豊・俊豊・致豊・誠豊・祐豊と備後の守護を百三十七年間にわたって続けているが、太田垣氏も山名氏の側近として大いに活躍していた。
しかし、虎視眈々と尾道進出を狙う安芸の毛利氏が山名氏や太田垣氏、備北の国人山内氏の勢力を排して尾道を支配下に置くようになっていく。
一方、但馬の太田垣氏本家の竹田城第七代城主太田垣土佐守輝(てる)延(のぶ)もそれまで敵対していた毛利輝元と組んで、天下布武を図る織田信長にどうかして対抗しようとしたが、但馬に送り込まれた辣腕豊臣秀吉により、天正五年(1577)本拠地であった竹田城はあえなく陥落する。
最も高い位置にある天守台をほぼ中央に置き、周囲に本丸以下平殿、奥殿、花殿を配し、鳥が両翼を広げたように南方に南二の丸、南千畳、北方に二の丸、三の丸、北千畳を築き、峻嶮さを利用して城を守るという全国でも数少ない典型的な山城の遺構を私達は今見る事が出来る。
向いの山から見る霧の中に浮かぶ城跡の姿は幻想的で天空の城に相応しい格好の被写体とされている。
今、竹田城の城跡に立って、歴史の中に消えていった山名氏や太田垣氏の活躍を思うと山城の曲輪の跡を吹き渡る風に「天上影は替(かわ)らねど 栄枯は移る世の姿 写さんとてか今もなお 嗚呼 荒城の夜半の月」の歌が浮かんでくるのを禁じえない。

春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。
歴史的な名所を訪れるのも良し、ゆっくりと街並みを歩きながら心穏やかな時間を過ごすのも良し、美味しい食事を心ゆくまで楽しむも良し。
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