応仁の乱

文(ぶん)正(しょう)二年(1467)正月十八日朝、東軍・室町幕府管領畠山政長(まさなが)が京都の御霊神社(上御霊神社)の杜(もり)に立てこもり、西軍・山名方の支援を受けた畠山義就(よしなり)と一戦を交えた御霊合戦が応仁の乱の端緒となった。

前日の十七日深夜、畠山政長は自らの屋敷を焼いて、兵約二千を率いてここに布陣した。翌十八日早朝、畠山政長と畠山家の家督を激しく争っていた畠山義就が兵三千余で攻撃をしかけ、十八日は終日激しい戦いが続いた。

義就方には朝倉孝影(あさくらたかかげ)、山名持豊(宗全)の命を受けた山名政豊が加勢した。

しかし政長方には頼みの細川勝元がこの時点ではまだ動かず、まる一日の合戦の結果、政長方は持ちこたえられず退去した。これが「応仁の乱」の戦端である。

その年の三月、年号は「文正」から「応仁」と改まり、細川氏・山名氏の両陣営はそれぞれに味方を集めて戦時体制をかため、五月から上京を中心に、将軍足利義政の後継者争いも絡み合う、東西両軍の全面的な戦いに入った。(京都市「応仁の乱勃発地」解説による)

細川持之(もちつき)の後を受けて管領となった畠山持国(もちくに)であったがその実子である義就(よしなり)が管領に就くことを持国の家来達が反対し猶子の政長(まさなが)に家督を継がせようとした。

持国が亡くなると細川勝元が政長を支持したことから義就が退かされ政長が管領となっていた。管領の嫡子が管領に就けない異常なこの畠山家の相続争いが細川、山名氏の対立に拍車をかけることになった。

山名宗全邸宅跡碑

現在、御霊神社前に「応仁の乱勃発の地」の石標が建っている。

この御霊神社は御所の北、上京区上御霊町にあり、「平安遷都に際し(延暦十三年(794))、桓武天皇の勅願により早良(さわら)親王(実弟)の神霊を現在の社地に祀り、京都の守護神としたのがその始まりとされている」(御霊神社由緒書による) 特に南北朝以降、御所の守護神として皇室の崇敬が厚く、神輿や牛車等、皇室から寄付された品を多く蔵している。

明治維新まで皇室は皇子が誕生する度に当社へ参詣し、社前で売っている疫病除けにご利益があるとされる唐板(からいた)の煎餅(せんべい)をお土産にしたと言う。

三十になっても子供の無かった将軍足利義政は出家していた弟の義(よし)視(み)を還俗させて将軍にしようとしたが、還俗させた次の年に妻日野富子が義尚(よしひさ)を生んだ。

日野富子は義尚が将軍となるべきであると主張して山名宗全に援助を求めた。義視には細川勝元がついていたことから将軍家の継嗣問題は混乱した。

それに官領家の斯波氏や前述の畠山氏の家督争いが勢力を拡大した細川勝元と山名宗全との対立に輪をかけた。

山名氏には六分一氏と言われた頃細川氏によって内紛を起され領土を分配させられた怨念もあった。更に守護大名の台頭による相対的な将軍の権威の低下、貨幣経済の進展による格差社会への不満等々が応仁の乱の原因とされている。

応仁の乱勃発の地碑

東軍・細川勝元と西軍・山名宗全の本格的な戦いは、応仁元年(1467)五月二十六日、細川方が足利義満の建てた花の御所の右隣にあった一色義直邸の攻撃によって始まったが、西軍の山名宗全には二十ケ国十一万余騎、一方、東軍の細川勝元には二十四ケ国十六万余騎が文明七年(1477)まで十一年間にわたって死闘を繰り広げた。

その結果、京都は郊外を含め市内全域が焼き払われ、焼け残った主な建物は大報恩寺(千本釈迦堂)本堂、蓮華王院(三十三間堂)本堂、教王護国寺(東寺)五重塔だけといった有様であった。

飯尾彦六左衛門尉はこの京の壊滅的な被害を見て「汝(なれ)や知る 都は野辺の夕雲(ゆうひ)雀(ばり) あがるを見ても 落(おつ)る涙は」と詠んでいる。

この戦いで、義視を擁する執事の細川勝元は室町今出川の「花の御所」(足利氏の住宅・室町幕府)に陣を敷き、一方義尚方の山名宗全の西軍は、堀川今出川から堀川通りを北に百メートルほど進み、ガソリンスタンドを西に入ったところに現在「山名宗全邸宅跡」の碑が建っているが、ここに西軍の本陣があった。

これが現在の「西陣」の地名の由来になっている。少なくなってきているがそれでも西陣の狭い路地を歩いていると今もガッシャン、ガッシャンと西陣織りの機(はた)の音がどこからとなく聞こえてくる。

応仁の乱は京都での戦いとのイメージがあるが、備後地方でもこの影響で同族、親子が別れての死力を尽くした「応仁の乱」があった。

備後における戦いは、応仁二年(1468)八月、備北庄原の甲山城(庄原市山内町・本郷町)に本拠地を持つ西軍山内豊成等が東軍山名是豊の支配下にあった大田庄内の小世良(中国やまなみ街道世羅インターの南付近)に侵入したことに始まる。

山名是豊は細川勝元から備後守護職に任じられており、不仲であった父(山名宗全)に反旗を翻(ひるがえ)しての戦いであった。このために備後の豪族は、父親の宗全側と息子の是豊側とに分裂し、備後国内を二分しての激しい戦いが繰り広げられた。

応永九年(1402)七月、山名時煕(宗全の父)が高野山領の大田庄を一千石で守護請して以来、大田庄の経済力を背景に積出港であった尾道浦に守護所を置いて、備後を手中に納めていた山名氏にとって、小世良のこのあたりは備後における欠くことの出来ない政治的・経済的な拠点であった。備後における「応仁の乱」は畢竟この大田庄の経済力をめぐる争いでもあった。

緒戦、西軍山内豊成等の軍勢は戦いを有利に進め、東軍に加勢していた杉原家一族の排除や、山名是豊の支配下にあった守護所・尾道への進出を目指して南下を始めていた。

このような形勢に洛内で戦っていた山名是豊は備後に取って返り、文明元年(1469)二月、杉原苧原(尾道市原田町小原)に侵入してきた西軍の山内軍と戦った。この合戦では東軍方に付いていた沼田小早川家の小早川熙平(ひろひら)もこれを迎え撃ち、西軍の南下を防いでいる。

四月には、今度は逆に東軍が北上し、重永神上(世羅郡世羅町)で両軍の激しい戦いが繰り広げられた。

これに対して父の山名宗全は文明二年末、腹心である宮田教言を「守護代」として甲山城に送り込み、東軍を迎え撃った。山名是豊にとって自己の立ち位置は備後以外に無くその喪失は自己の没落を意味していた。

その為、文明三年四月十六日、畿内に戻って転戦していた是豊は再び備後に取って返し、備後南部の要衝の一つであった坪生(福山市坪生町)に陣を取り、ここから草戸に進撃、諸城を攻め落として要港であった鞆(福山市鞆町)を平定した。

更に是豊軍は柏村(芦品群新市町下安井)で西軍に走った宮下野守と戦って勝ち、西軍の本拠地である甲山城へと北進を続けた。現在、柏城跡には宮一族の墓石とされる遺構が残されている。

時を同じくして、三原の小早川家は沼田家、竹原家と東西両陣営に別れて戦っていた。もともと小早川家は源頼朝に仕えた土肥実(さね)平(ひら)を祖として、安芸国沼田庄の地頭であった四代目茂平(しげひら)の代に三男 雅平(まさひら)が本家の「沼田小早川家」を継ぎ、四男政景(まさかげ)が分家の「竹原小早川家」として独立したものである。

文明二年年(1470)、西軍に属した竹原小早川家の十一代当主である小早川弘景(ひろかげ)が、東軍に属した沼田小早川家の小早川熙平(ひろひら)の嫡男敬平(たかひら)の籠っていた本拠地である安芸高山城(三原市本郷)を包囲した。

是豊は沼田小早川家の援護として鳴滝城を守る沼田小早川家の軍勢を差し向けようとしたが、小早川氏と交代予定の備中勢が遅れ援軍が出せなかった、援軍が到着した時は、既に両家の和睦がなったあとであった。このことが是豊の評価を貶(おとし)め、人望を無くす結果となった。

備後西軍方の中心的な武将である山内豊成の居城甲山城を落とさんと攻め立てていた是豊であったが、西軍の安芸の毛利豊元が旗返城(三次市三若町)で是豊軍に勝利すると、東軍は総崩れとなり、東軍は敗れ去った。

毛利豊元は宮田教言と協議して、文明七年、是豊を国外(石見)に追放した。

戦後処理のため、宮田教言は杉原総領家の居城である八尾山城(府中市出口町)に入り、是豊を支持した備後の杉原家一族などの勢力の一掃を行った。

そして山名宗全の跡を継いだ嫡流の山名政豊を備後の守護職とし、是豊の勢力が及んでいた守護所尾道を沿岸部の押さえとした。

その後、山名氏は備後の守護職を天文七年(1538)七月まで任じていくが、大内氏や尼子氏さらに毛利氏などの戦国大名の出現により山名氏の守護体制も徐々に衰退していった。

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