平田玉蘊

平田玉蘊は天明七年(1787)、尾道の木綿問屋福岡屋の次女(長女は早世)として生まれた。

名は豊(とよ)、または章(あや)といい、玉蘊(ぎょくおん)はその号である。

現在の尾道市の本通り商店街が当時京都から長崎に至る西国街道で、現在旧三井住友銀行尾道支店のあるあたりに尾道町奉行所があった。

その西側に奉行所が管理していた米蔵があり、西国街道を挟んで米蔵の北側が福岡屋で、その西側西国街道の南北に一里塚を示す松が植えられていた。

このため福岡屋は「一里塚の福岡屋」と呼ばれていた。

当時尾道港には北前船が寄港し、他国の廻船が頻繁に出入りして港は中継基地として活況を呈していた。

その経済的発展の中で、尾道には財を成す多くの豪商が出現していた。

福岡屋もその内の一つで、浄土寺(尾道市東久保町)に収蔵してある安永三年(1774)製作の「安永の屏風」には福岡屋の敷地に「福岡屋新太郎抱(かかえ)」と記してある借家が五軒あり、敷地全体の三分の一を占める北側の住宅は「福岡屋新太郎庭」と書かれている。

これは当時としては珍しい富の象徴である高価な蘇鉄(そてつ)が庭に植えられていたので特にこれをこのように示したようである。

福岡屋(平田玉蘊生家)付近

父新太郎(五峯(ごほう)はその号)は家業のかたわら能楽や茶や歌に通じ、特に舞には神が宿るとさえ讃えられていた文化人であった。

そんな何不自由のない家庭の中で玉蘊は五歳下の妹玉葆(ぎょくほ)と共に池大雅の門人で尾道の福原五岳(ごがく)や京都の応挙門下の八田古秀(こしゅう)に画の手ほどきを受け、伯父草香孟慎の紹介で詩歌は当代一流の漢詩人であった神辺の菅(かん)茶山(ちゃざん)や頼山陽の叔父である竹原の頼春風(らいしゅんぷう)に師事するなど一流の学問を身につけていた。

姉妹の玉蘊、玉葆との名は春風が付けた。

ところが文化三年(1806)十二月十三日、玉蘊が二十歳の時、突然父五峯が四十七歳で亡くなり状況が一変する。

大黒柱を失った福岡屋は除々に左前となっていくが、長女としての玉蘊は家業の木綿問屋の存続・再建を図ることはなかった。

養子をとって家業の存続・再建する事よりも画業で身を立てようと考えていた。

次の年の九月、玉蘊は玉葆と共に竹原の照蓮寺で開かれた頼家の法事に招かれた。
父親を亡くした姉妹に籟春風が同情し、何とか力になってやりたいと考えての事であった。

その法事で運命の人となる頼山陽(らいさんよう)と初めて出会った。

玉蘊はこの時二十一歳、山陽は二十八歳であった。

座興で玉蘊が描いた絵を見て山陽は「絶塵風骨是仙姫(ぜつじんのふうこつこれせんき) 却画(かえってえがく)名花(めいか)濃艶(のうえんの)姿(すがた)」(汚れを知らぬ気品はまさに仙女、この人がこんなあでやかな牡丹の絵を描くなんて)「淡粧素服(たんしょうそふく) 風神(ふうじん)超凡(ちょうぼん)」(薄化粧で品の良い装いのたぐい稀な女性である)「まことに子成(しせい)(山陽)の偶すべき者」(自分の生涯の伴侶に相応しい)と玉蘊を一目見て心を奪われてしまった。

山陽は寛政十二年(1800)脱藩騒動を起こし、逃げて隠れていた京から連れ戻され、その後三年間、自宅屋敷の離れの座敷牢(現在広島市にある頼山陽史跡資料館の敷地内にある頼(注)山(1)陽居室)に幽閉されており、その謹慎生活が解かれたばかりであった。

そんな山陽にとって玉蘊は眩(まぶ)しく、まさに天女のように思えた。

広島藩藩儒である山陽の父春水(しゅんすい)は脱藩をした山陽を廃嫡して弟春風の子景譲(けいじょう)を養子として迎え家の存続を図った。

山陽の将来については、親友であった菅茶山が神辺に開いた四書五経を中心とした講釈をしている黄陽夕葉(こうようせきよう)村舎(そんしゃ)(廉熟(れんじゅく))の都講(とこう)(塾頭)として迎えてもらい、出来れば子供の無かった茶山の養子として菅家を継いでいずれの日にか福山藩に取り立てて貰えるようになってくれればと考えていたが、景譲を誘ってもっぱら遊蕩にふける山陽に手をやいていた。

一方、六十二歳の茶山にとって家の後継者については頭の痛い問題であった。

茶山の弟は既に亡く、養子にもらっていた万年は病身であった。

都講(塾頭)のことは山陽の知らぬ間に二人の間で話が進められていた。

平田玉蘊絵碑(持光寺内)

山陽は何時(いつ)か三都(江戸・京・大坂)のいずれかに出て世に名を成したいとの志を果たしたいとの思いから、広島を離れることはそのまず第一歩であると考え、都講(塾頭)になることを承諾した。

神辺は思い焦がれている玉蘊の住んでいる尾道に近いこともあった事と、玉蘊が茶山と懇意にしていた事が決め手となった。

文化六年(1809)十二月二十九日、三十歳の山陽は広島を発ち、神辺で廉塾の都講(塾頭)となった。

山陽が神辺に滞在していた頃、「客思逐楊花(かくしおうようか)」(旅先で美しい花を追いかけている)との唐の詩人劉商(りゅうしょう)の結句を手慰み書いた書が残されている。

晩熟(おくて)というか不器用ながらも玉蘊へ思いを募らせながら、「旅先での思い」とのことなので、山陽にとって神辺はやはり仮寝の宿としか考えていなかった。

山陽は儒学者として茶山を尊敬していたが、それ以上に都へ出たいとの思いは強く、そのことを玉蘊に会って伝えた。

「近々わしは廉塾を飛び出して、京に行くつもりじゃけぇ、一緒についてきてくれんかのう。玉蘊殿にとっても京は絵の先生もおるし、夢を実現させる舞台じゃと思うがのう」

「玉蘊殿が絵を描き、わしが歌を詠む、そういう生活に憧れているんじゃ」

「でも、私には母や妹が・・・」

「京で家塾を開いて稼いでいくけぇ、御母上や妹御(いもうとご)も一緒に連れてくるとええ。面倒はわしが見ちゃるけん」

山陽は玉蘊との京都での新生活を想い描いて必死になって頼み込んだ。

山陽の思いに絆(ほだ)されて玉蘊は家に帰ってこのことを母峯(みね)や妹玉葆に伝えた。

「借家の収入だけで昔のように贅沢は出来ひんけど、食べていくだけならなんとかなるけぇ、右も左も分からん京で暮していくよりゃー、この尾道にいてお父さんと一緒のお墓に入りたいがのう。それにこの年になって山陽さんに気をつこうて暮していくのは難儀なことじゃのう」と峯は思いながらも、健気な娘の願いも聞いてやりたいと茶山や知り合いに手紙を送って山陽の素性を尋ねたりした。

茶山からは「文章は無双なり、年すでに三十一、すこし流行におくれたをのこ、廿(はたち)前後の人のように候」というような返事があり、峯は逡巡していた。

しかし、妹の玉葆は竹原での法事での詩会や忠海での舟遊びで山陽が一途に玉蘊に好意を寄せていることを見て知っていたので前向きであった。

「久太郎さんはお姉ちゃんのことをすいちょるけん大丈夫じゃと思うヨ」この玉葆の言葉が峯の背中を押すこととなり三人は揃って京に向かうことになった。

文化八年(1811)二月、塾頭はわずか一年二ヵ月で山陽は神辺を飛び出して上洛した。

そして新町通丸太町上ル春日町の借家に晴れ晴れしい気持ちで「頼久太郎僑居(きょうきょ)」との表札を掲げ「真塾」という名の家塾を開いた。

ところがしばらくして父春水の知り合いから、京に滞在するについては広島藩大坂屋敷や京屋敷を経て一定の手続きが必要である。

勝手に塾を開いたり、表札を揚げたりしては広島藩としての面子が立たず、広島に連れ戻されて再び幽閉とのお咎(とが)めを受けることになる。

しかも山陽本人だけでなく父の春水までも累が及ぶことになる恐れがあるとの忠告があった。

山陽が神辺に行くのにあたっては広島藩の了解を得、又、京に出るにあたっては茶山の許可を得ているというのが山陽の理屈であった。

しかし、茶山は福山藩の人であり京の広島藩への届出はしていなかった。

山陽は二度目の脱藩扱いとなることに驚いて、慌てて表札を外し、塾は閉講し、大阪に一時身を隠した。

そして、茶山に改めて「出藩の表向きは茶山先生の名代である旨の書状を出して欲しい」と依頼した。

山陽は都講として「弟子は塩踏みじゃ」(足の裏に何も感じない)として十分な講義もしなかっただけでなく「山は凡、水は濁、弟子は愚、師は頑」と墨で黒々と壁に書きなぐって茶山の元を飛び出しており、これほどあつかましい申し出はなかった。

茶山にとって山陽が廉塾を去ったことについて「後足で砂を蹴り上げられた」との忸怩たる思いであったが、山陽の父春水との友情を優先させて、四月十四日「京阪住居の事、少しも差し支(つか)えこれ無く」と苦々しい思いで返事を書いた。

とりあえず、これをもってともかく京の広島藩への届出を済ませる事は出来た。

しかし、正式に広島藩からの許可が出た訳でなく堂々と京で開塾することは憚(はばか)られた。

山陽は内心二度目の脱藩扱いとなって帰郷させられるのではないかと恐れていた。

山陽の勝手な振る舞いに母梅颸(ばいし)は茶山の妻宣(のぶ)に長い謝罪の手紙を送って許しを請うた。

父春水は怒って山陽を勘当した。
温厚な茶山も流石に暫く音信を断った。

このために山陽は京に入った時はいくばくかの金子があったもののたちまち窮してしまっていた。

西本願寺御影堂

こんな時に玉蘊親子三人が上京してきたのである。

山陽一人が食べていくのがやっとである状況の中で当然玉蘊親子の面倒まで見る余裕などなかった。

何の先の見通しの無いまま玉蘊親子の泊まっていた西本願寺の近くの宿坊を訪ねた。

「久しぶりじゃのう。よう来たのう」

「久太郎様のお話を頼ってこうして三人で京に参りました」

「実はのう正直に言うと塾は開いたのじゃが、広島藩の正式な許可が出ぬうちは表立っての活動が出来んのじゃ。早く許可が出るのを待っているのじゃが、一向に返事がこんのじゃ。頼むけぇもう少しだけ待ってくれんかのう」

山陽は初めて会う峯と目線も合わせられずにいた。

峯にとっても勇んで京まで出て来たのに肩透かしをくらったようであった。
それほど山陽は煮え切らなかった。

他人行儀に陳謝して「もう少し」を繰り返すのみで結局、山陽は逃げるように親子と別れ、春日町の自宅に戻った。

玉蘊は動揺を隠せないでいた。
どうしたら良いのか分からなかった。

表向きは姉妹で絵の勉強のために京に行ってくるということで尾道を出てきたが、本音は山陽との婚姻をまとめるつもりだった。

玉蘊は山陽の返事を待っている間、福岡家の菩提寺である持光寺の本山である禅林寺(永観堂)をお参りしていても、西本願寺の御影堂(ごえいどう)で吉村孝敬や徳力善宗・善雪父子の襖絵を写しとっていても、伊藤若冲の軍鶏図(ぐんけいず)の粉本(ふんぽん)(手本)を模写していても集中出来ないでいた。

峯は三人の名で尾道の十四日町で海運業を営み町年寄でもあった竹内家四代目彦右衛門(緑綺先生)宛てに「無事に京師に居りますが、三人とも暑さには強くないので、この暑さには困り切っております。四条川原の夕涼みは涼しくて気持ちの良いものですが、これも毎夜毎夜となるとかえって疲れてしまいます。この日中の暑い時に尾道に帰るのはどうかと思い、長逗留を決め込んでいます」と愚痴めいた手紙を送っている。

又、その文中に「細香栖鳳二女史はいたって上手く絵を描いている」ことも書かれており、三人は美濃大垣藩の蘭方医である江馬蘭斎の娘江馬細香(えまさいこう)の情報も得て、山陽との関係も気になっていた。

京での滞在を少しでも先延ばしして山陽からの良い返事を待っていたのであるが、八月の終わりになり玉葆は「お姉ちゃん、尾道に帰ろうゃあ。返事はもうこんわ。あきらめにゃあ、いけん」と言い出した。

妹は覚めた目で状況を見ていた。

虚しく京から引き上げてきた玉蘊には「山陽を追っかけて京まで行って結局、山陽にふられた女」との噂がすぐに広島から備前あたりにまでも伝わっていて、恥ずかしくて何処にも出ることも出来ず、精神的にかなり参っていた。

久太郎殿とうまくいかなかったのは「時節が未だ至らなかっただけだわ」と諦めるようにして私にはこれしか生きる道はないとかえって一心に筆を取って絵に集中して山陽のことを忘れようとした。

この頃玉温が描いたのではと言われる絵が尾道の浄土寺に残っている。

庫裏の式台の奥に衝立としてそれは置かれていて、「軍鶏図」と題され下地を金箔とし、中央の岩の上に寒風に向かって立つ一羽の痩せ細った軍鶏(しゃも)の絵である。

田能村竹田像 (尾道千光寺)

どんなに強い寒風が吹こうが岩の上に足先を踏ん張って立っているその軍鶏の姿は、風評など気にせず、なんとしても画筆で家族を支えていこうとする玉蘊の気持と姿とがだぶって映る。(注・この衝立の裏面には円山応挙の弟子で四条派の祖である松村呉春による花鳥画が合装されている)

玉蘊と山陽の婚姻は山陽を後継者として神辺に繋ぎおくための唯一の好機であったが、茶山は二人の関係を気付きながらも山陽が人間的にまだまだ未熟であり、玉蘊には同情し随分気にもかけていたが、上手く家庭に納まるかどうか確信が持てなくて二人の婚姻の話を前に進める事はなかった。

父春水も藩儒という立場からも、茶山との親友関係からも、それ以上に厳格な性格からも厳然として口に出せなかった。

母梅颸は本心は一緒になってくれればと思いながらも、夫に従わざるを得なかった。

伯父の杏坪(きょうへい)は真剣な玉蘊の思いを何とかして叶えてやりたいと考え、兄の春水に談判したが「馬鹿な事を」と一笑に付されて相手にされなかった。

それ以上に規格外の粗野な性格の甥の山陽を身内だからということでかえって御し切ることが出来ず、神辺にとどめ置くことは虚しく諦めざるを得なかった。

玉蘊の夢は潰えてしまった。

玉蘊はこんな時何でも相談をすることが出来る父五峯や叔父孟慎(もうしん)がいてくれればと悔やんだ。

京から虚しく帰って来て表も出られぬほどの玉蘊を救ってくれたのが、たまたま尾道に逗留していた伊勢の俳人白鶴鳴(ばいかくめい)であった。

文化十二年(1815)、山陽との傷を癒すためにか玉蘊は末松山波も越えなんと将来を約束し、一子をもうけたが夭逝(ようせい)してしまった。

このことが鶴鳴にとってショックであったのか、どこか心の底で山陽のことを忘れきれないでいる玉蘊を疎(うと)ましく思ったのか、やがて鶴鳴は玉蘊のもとを去ってしまった。

山陽は尾道の豪商橋本竹下に「玉蘊は鶴鳴に弄ばれた」と玉蘊を非難する手紙を送っているが、「憐れむべし、我実に背(そむ)きおわんぬ」と一番誠意が無かったのは自分自身であることを十分承知していた。

文化十二年(1815)九月二十二日の梅颸の日記に「晴、南(杏坪宅)へ玉蘊餞別に招かれ、来、暮過、こちらよりも御出、夜四っ頃、静(梅颸)も行く」とある。

山陽の勝手な振る舞いに兄夫婦のわだかまりを見かねた杏坪がこの日広島に来ていた玉蘊を招いて宴席を持った。

その日の春水の体の調子が思わしくない事を杏坪は知っていたが、折角の機会であるからと一席設けた。

初対面の梅颸は山陽が約束を反故にした事を繰返し詫びた。

年は取っていてもまだまだ大人になり切れない子供なので許してもらいたいと頻りに頼み込んだ。

春水は藩医であった亡友(草香孟慎)との楽しかった思い出を姪である玉蘊に話して聞かせた。
宴は夜遅くまで続いた。

文化十二年の大晦日、山陽は京の住まいで「街鼓(がいこ)鼕々(とうとう)として 夜漸(ようや)く深く 歳月の暗に侵尋(しんじん)するに堪えず 一燈(いつとう)の形影(けいえい) 誰か相伴(あいともな)わん 独り瓶梅(へいばい)と此の心を話す」(街につづみの音が響いて夜は次第に深まり、歳月が人知れず経過してゆくのは感慨に堪えない。

一燈の影のもとで誰と共に過ごそうというのか。

私は独り、花瓶に活けた梅に自分の気持を話している)という詩を詠んでいる。

既にこの年将来を共にする梨影(りえ)と一緒になっており、持って生まれた山陽の自分勝手な性格出ているが、これまでの来し方を振り返ってやはり玉蘊の事を思わずにはいられなかったのであろうか。

こういうことがあって玉蘊はそれまで以上に強くしなやかな女性になっていった。

橋本竹下の媒酌で三原の大原家に嫁した妹の玉葆の子玉甫を養子として迎え入れ、画法に工夫研鑽を重ね、常に新しさも採り入れることを怠らず、どんなことがあっても絵筆一本で母を養い、家を守って自立していくことを決意していた。

尾道は瀬戸内の物流の中継基地として活況を呈しており、財を成した豪商を中心とした茶園文化が醸成され文化や芸術にも関心が高まっていた。

そんなことから玉蘊は絵の依頼があれば、詩会や茶会にも積極的に参加するだけでなく、酒席にも侍(はべ)って絵を描いたことから「文学芸者」と陰口も叩かれたが、玉蘊はなりふり構わず超然として絵を描くことで生計を立てた。

京の蘭学医新宮涼庭が残した「西遊日記」には、文化九年(1812)九月、「尾道に入る。人口稠密(ちょうみつ)、三備の巨港なり・・・廿六日午後灰屋某余を招き酒宴を張る。座中二女あり。曰く玉蘊玉葆なり。余のために蘭竹を画く。水墨淋漓(りんり)(勢いのあるさま) 清婉(せいえん)(清らかであでやか)愛すべし」と涼庭が橋本竹下に招かれた酒宴に玉蘊姉妹がいて彩管を揮った事が書き残されている。

ちなみに後年、山陽が京で喀血したとき診療したのがこの新宮涼庭である。

現在、南禅寺参道の湯豆腐の順正の敷地内にある順正書院は新宮涼庭が開設した医学学問所として建てられたものである。

文政七年(1824)に玉蘊が描いた渡橋(おりはし)忠良(渡橋貞兵衛)翁像の肖像画がある。

渡橋忠良は元々宮原姓の竹原の人であったが、尾道で物産の仲介業で名を上げ、財を成し、尾道財界が逼迫して恐慌に陥った時、藩に建言し苦境を救った気骨のある尾道の豪商の一人である。

山陽は預金をこの渡橋家に預け、今で言う財テクで利子収入を得たりするほど山陽との親交が深く、山陽も京都と広島への行き帰りに度々この渡橋家に逗留した。

こうした縁で渡橋忠良の五男の宮原節庵は山陽に師事した。

この肖像画には落款(らっかん)が無いが、山陽はこれに「稿碑銘敬題」(敬って翁の功徳を述べる)と題した賛を記している。

これが玉蘊との最後のコラボレーション(共同作業)ではないかと言われている。

因みに渡橋家の墓所は尾道の千光寺観音堂の西側にあり、山陽の撰並びに書になる墓碑が建っている。

玉蘊が四十五歳の天保二年(1831)、江戸で刊行された白井華陽著「画乗要略(がじょうようりゃく)」の閨秀(けいしゅう)(女流画家)の部に二十二名の中に玉蘊は紹介され、序には代表的な女性画家として清原雪信(狩野探幽の姪)、池玉蘭(池大雅の妻)、桜井雪保(桜井雪館の娘)、江馬細香等と共に五人のうちの一人として「筆法勁秀(ひっぽうけいしゅう)、賦媚(ぶび)を以(も)って工(たくみ)となさず、名は三備の間に著(あら)わる」(筆遣いは力強く秀でていて、世間に媚びた技法では無く、美しいものを作り出す技を持っている。

その名は広く知れ渡っている)と玉蘊を紹介している。

玉蘊の評価の高さが、備前、備中、備後だけでなく、玉蘊の絵に茶山が賛を書き入れたことでその名は全国レベルにまで広がっていた。

田(た)能村(のむら)竹田(ちくでん)も天保四年(1833)、「竹田荘師友画録」に玉蘊のことを「平田氏尾道の人なり。画を売ってその母を養う。その名前は全国に聞こえている。住まいしている所に蘇鉄が植えられているので、そこは鳳尾蕉軒(ほうびしょうけん)と名付けられている。画は京派より出て花鳥画を得意としている。優れた筆遣いや彩(いろどり)はともに素晴らしく、又、関羽像など人物画も勇壮で逞しい筆遣いである。玉蘊本人の容姿もたおやかで美しく、細くしなやかな宝石を削ったような華奢(きゃしゃ)な手指だからこそ言葉に言い尽くせない程の見事な画が描けるのだろう」と書き残している。

平田玉蘊墓所(持光寺)

玉蘊の描く絵が幾らかの評判を得たとしても、この時代、依頼されて描く絵だけでは家族を養っていけず、福岡屋に代々残されていた価値のあった書画骨董品は生計の足しにと散逸してしまっていたが、玉蘊にとって古鏡(注2)十数枚だけは格別の愛着があって手放さなかった。

山陽の叔父杏坪は「古鏡歌」と題して「芸藩通史」に「金鈿銀笄(きんでんぎんけい)欲する所に非ず、独り古鏡を撫でて潔行を持す」(彼女は金の簪(かんざし)も銀の櫛(くし)も望んではいない。古鏡を撫でて清らかな日々を送っている)

「鏡よ鏡よ、もし霊あらば 汝の為に邪(よこしま)なるものを辟(のぞ)き福慶(ふくけい)を来らしめよ」(鏡よ鏡、もし霊があるならば、あなたのために災いを除き幸せをもたらせておくれ)こんな真面目な女性であるので鏡の持つ魔力でもって彼女への災いは除き、幸せが訪れるように図らって貰えないだろうか。

との歌を詠んでいる。
  
文政二年(1819)五月、三十三歳の山陽は玉蘊の所蔵する古鏡に題して「一段(いちだん)傷心(しょうしん)誰(だれか)得(しるを)職(えん) 凝塵影裡 孤(ぎょうじんえいりこ)鸞(らん)舞(ま)」(傷ついたあなたの心を誰が知っているだろうか。あなたに対して私は本当に不誠実であった。ただ一羽の鸞(らん)(鳳凰の一種)が空を舞っているようにあなたを寂しい境遇に追い込んでしまって、本当に済まなく思っている)と詠っている。

本心では山陽のことを忘れきれないでいる玉蘊にとって、この詩を聞いて知った時程辛いことはなかった。

あの時どうして事情を汲んでもう少し待ってあげられなかったのかと、今更のように自分を責めた。

その山陽も天保三年(1832)九月、結核で亡くなってしまう。
玉蘊が四十六歳のことである。

天保五年(1834)、全国的な天保の大飢饉に襲われた際、橋本竹下は難民救済対策として尾道の栗原村にあった橋本家の菩提寺である慈観寺の本堂を長江口に移築する事を発願した。

この救済事業により吉和や山波や栗原では餓死者が出たが、尾道では一人も餓死者が出なかったことが今に伝わっているが、玉蘊はこの本堂の襖絵を描くことを竹下に依頼されている。

今も慈観寺本堂に玉蘊がその時に描いた「桐鳳凰図」の襖絵が残っている。

亡くなった山陽が詠んだ古鏡の詩を題材にして、雲を金箔で表し中央から右手にかけて桐の木を配し、左手には平和な世に現れるという純白の鳳凰が悠々と舞っているその姿は彼女が望んだ山陽との幸せな生活を思い描いたもののようである。

山陽のことを忘れられずに慕(した)っている玉蘊の健気さが痛いように伝わってくる。

もう一枚、玉蘊が描いた作品としては大作の「雪中の松竹図」が福善寺(尾道市長江一丁目)の本堂正面の襖絵に残っている。

この絵は西本願寺御影堂の襖絵に類似しているが、金色の襖一杯に描かれた極寒の中耐えている雪中の松竹梅に山陽の返事を待ち焦がれていた時の不安な心持と共に「耐寒香梅花」との玉蘊の気魄(きはく)が伝わってくる。

天保十一年(1840)一月、母峯が仏壇の前で日課の念仏を唱え終え立ち上がろうとした時、昏倒(こんとう)し、そのまま意識が無くなった。

一週間手を尽くしたがとうとう身罷った。
七十三歳であった。

峯は山陽との一件や鶴鳴の事を気持ちの上で整理出来ず、以来ずっと拘泥(こうでい)していたので玉蘊はこの母のためにもと表面だけでも明るく振舞っていた。

玉蘊は張りつめていた糸が切れたように大声をあげて慟哭した。

それまで玉蘊を世に出し、名を成さしてくれた人達が亡くなった時も確かにそれはそれで辛いものであったが、さすがに母の死位辛く悲しいことはなかった。魂が抜けたように部屋に閉じこもったまま何も手に付かなかった。

日本が明治という新しい時代を向かえる為の激しい内戦の始まる安政二年(1855)六月二十三日、六十九歳で玉蘊は亡くなった。

光明寺(尾道市東土堂町)に残されている「富士」が遺作となった。

「女は三界に家なし」と言われ女性が生き辛い(づらい)社会にあって絵筆一本で生きた玉蘊の墓は福岡屋の菩提寺である持光寺(尾道市東土堂町、浄土宗西山禅林寺派で総本山が京都東山にある永観堂)にある。

持光寺の本堂前の左右には福岡屋(鳳尾蕉軒)から運んで植樹したと言われる玉蘊遺愛の蘇鉄が今も青々と繁って風に吹かれている。

本堂に向かって左側の墓地にある玉蘊の墓標には山陽の弟子であった宮原節庵が伸びやかな書体でその名を刻んでいる。

尾道では平成六年(1994の六月二十日、第一回「玉蘊忌」が開かれて以来、六月二十三日の玉蘊の命日には持光寺に於いてこの薄幸の閨秀(けいしゅう)作家を偲んで「玉蘊忌」が毎年盛大に開かれている。

 

注1 頼山陽居室について
頼山陽が幽閉されていた当時の居室は原爆で焼失し、現在の居室は昭和三十三年(1958)に復元されたものである。

注2 玉蘊の古鏡について
玉蘊の古鏡は玉蘊の没後行方がわからなくなっていたが、平成十四年(2002)奇蹟的に八枚が発見され、尾道文化財保護委員の故入船裕二氏の御尽力で故郷の尾道に里帰りすることとなった。平成十六年(2004)同時に発見された頼山陽の「古鏡題詠詩」の漢詩とともに尾道市民俗文化財に指定されている。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

尾道の観光スポット

春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

歴史的な名所を訪れるのも良し、ゆっくりと街並みを歩きながら心穏やかな時間を過ごすのも良し、美味しい食事を心ゆくまで楽しむも良し。

大人な遊び方ができる尾道において「尾道に来たら、ココだけは行って欲しい!」という、管理にイチオシの観光スポットを紹介しています。詳しくはこちらのページを読んでみてください。
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