尾道千光寺の参道にある「文学のこみち」に自然石に刻まれた正岡子規の¬のどかさや小山つづきに塔ふたつ」の句碑がある。これは正岡子規が明治二十七年三月日清戦争に日本新聞の従軍記者として、前日泊まっていた福山から山陽線で広島駅を経由して、宇品港から出港していくという行程の途次、汽車の中からの見た尾道の印象である。山波(尾道市山波町)を過ぎて尾道駅の手前迄のほんのわずかな時間の中で、早春ののどかな尾道の町をカメラで切り取ったように十七文字で、見事に言い表している。俳聖、正岡子規と呼ばれる由縁であろう。林芙美子は「海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい」と尾道駅に向かって山陽線の汽車の中から、海(尾道水道)を見ていた。正岡子規は山側の席に座って居たのであろう。この二つの塔は西国寺(尾道市西久保町)の三重塔と天寧寺(尾道市東土堂町)の海雲塔である言われているが、今回は摩尼山に抱かれるように建っている西国寺の三重塔についてである。 西国寺三重塔 - 尾道と京都

西国寺三重塔

尾道千光寺の参道にある「文学のこみち」に自然石に刻まれた正岡子規の¬のどかさや小山つづきに塔ふたつ」の句碑がある。

これは正岡子規が明治二十七年三月日清戦争に日本新聞の従軍記者として、前日泊まっていた福山から山陽線で広島駅を経由して、宇品港から出港していくという行程の途次、汽車の中からの見た尾道の印象である。

山波(尾道市山波町)を過ぎて尾道駅の手前迄のほんのわずかな時間の中で、早春ののどかな尾道の町をカメラで切り取ったように十七文字で、見事に言い表している。俳聖、正岡子規と呼ばれる由縁であろう。

林芙美子は「海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい」と尾道駅に向かって山陽線の汽車の中から、海(尾道水道)を見ていた。正岡子規は山側の席に座って居たのであろう。

この二つの塔は西国寺(尾道市西久保町)の三重塔と天寧寺(尾道市東土堂町)の海雲塔である言われているが、今回は摩尼山に抱かれるように建っている西国寺の三重塔についてである。

西国寺三重塔

足利政権下で備後の守護職であった山名氏は遣明貿易などによる豊富な経済力で、官寺として宗教的背景を地盤に持つ西国寺に利用価値を感じ、西国寺に対し四十四年に亘って莫大な寄進をしている。

西国寺の寄附帳には応仁の乱の西軍の大将、山名持豊(宗全)等の山名一族の名前が列ねてある。この西国寺の建物の中で、三重塔は永享元年(1429)足利六代将軍義教が造営したものとされている。

塔の高さは二十二・三メートルとやや小振りであるが、室町時代にわざわざ平安中期の古い様式で建てられており、室町時代の三重塔では純和様の最高の格式となっている。

廻縁がなく石製基壇の上に立つ珍しい様式で、中央間は板唐戸、脇間は連子窓、組物は三手先、中備えは三間とも間斗束、軒は二軒繁垂木となっている。

御本尊は願い事を意のままに叶えてくれるという如意輪観世音菩薩座像で、四本の太い柱の中に色鮮やかな極彩色の四天王に護られて安置されている。

この座像は八角形をした四重の框座(かまちざ)の上に華盤(けばん)を置き、その上の蓮華座に南面(尾道水道の方向を向いて)して座っておられる。

右膝をたてた上に頬に添えた右手を乗せておられるので正面から見るとお顔がやや左に傾いていかにも女性的な柔和な表情に見える。

金色の光背は笛や太鼓を持った飛天をつけた飛天光背となっている。四隅の壁には江戸時代に書き添えられたと言われている弥勒菩薩の壁絵が堂内を一段と華やかなものとしている。

この三重塔は愛宕山の木々に包(くる)まれるように建てられており、夜になるとライトアップされた塔が緑の中に浮かび上がっているように見える。建物の漆喰(しっくい)の白さも朱色に美しく照らし出される。

塔の脇には二百九十センチと広島県内でも有数の大きさの堂々とした五輪塔が一基置かれている。

この五輪塔は杉原民部太夫元恒(もとつね)の供養塔であると言われている。戦国時代、備後国御調(みつぎ)郡木梨村の木梨城主であった元恒は、天正四年(1576)の石山本願寺への兵糧運び込みに成功した第一次木津川の戦いにも名を連ねている。

その後、天正十二年(1584)、木梨城の出城として千光寺山に尾道の町を制する為の千光寺城(権現山城)を築いている。(元恒の父・元清が築いたとの説もある)

備南地方の強豪として毛利元就も恐れたと言うほどの勢力を誇っており、没後、人心の崇敬の念の厚かった西国寺に一族の関係者達がこの供養塔を建てたのではないかとの伝承が残されているが、近年の調査の結果、五輪塔は鎌倉時代のものとされ、元恒が生きた時代と符号しない。

然らばこの五輪塔は誰のものなのか、何のために三重塔の脇に建てられているのか、謎が深まるばかりである。

法観寺の五重塔

八坂の塔の名で知られる京都東山の法観寺の五重塔もこの足利六代将軍義教(よしのり)の再建によるものである。

京都のランドマークのようになっており、東大路通り清水道のバス停を少し戻る(上る)ようになるが、一筋目を右に曲がった塔の下商店街からこの塔を見上げた風景は京都のビュースポットの一つとなっている。

このコースを通ると清水寺に向うには少し遠回りとなるが、是非迂回されるようお勧めしたい。

この塔は寺伝によれば、聖徳太子が如意輪観音の夢のお告げにより建立したものであると言われている。

高さ四十六メートルは京都では東寺の五重塔に次ぐ高さで、本瓦葺、五層の和様建築で白鳳時代の建築様式を今に伝えるものである。

創建以来、度々災禍により焼失したが、その都度再建され、現在の塔は永享十二年(1440)に再建されたものである。

塔内には本尊五智如来(大日(だいにち)・釈迦(しゃか)・阿閦(あしゅく)・宝生(ほうしょう)・弥陀(みだ))の五体を安置している。

霊応山(れいおうさん)と号し臨済宗建仁寺派に属している。

足利義教は日親という法華経のお坊さんから改宗を求められ、将軍に対する無礼な振る舞いに腹を立て、煮えたぎった鍋の蓋を日親の頭にかぶせるなど、数々の恐怖政治を敷いて遂には赤松満佑に暗殺された将軍として伝えられているが、今私達に西国寺や法観寺の優美な塔を残してくれている足利義教という人は、本当は平和な世の中を望んでいた人ではなかったのではないかと思っている。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

尾道の観光スポット

春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

歴史的な名所を訪れるのも良し、ゆっくりと街並みを歩きながら心穏やかな時間を過ごすのも良し、美味しい食事を心ゆくまで楽しむも良し。

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