光明坊

瀬戸内海の島々を結んで尾道から今治に至るしまなみ海道、最近では世界七大サイクリングロードとしてすっかり有名となっているが、そのしまなみ海道の島の一つがレモンの生産が日本一の生口島で、現在尾道市の瀬戸田町となっている。

この島の東南に光明坊という寺がある。この光明坊は天平年間(730)聖武天皇の勅願により行基菩薩を開基とし建立されたと伝えられているが、寺には京都とかかわりのあるいくつかの興味深い話が伝わっている。

後白河法皇の第三皇女である如念尼公が松虫・鈴虫という二人の侍女を伴って、この島に來住し、光明坊にこもって念仏修行を始めたところ、本尊の白亳(びゃくごう)がにわかに光を放ち始めたという。

これを伝え聞いた後白河法皇は、寺に「光明三昧院」の勅額を下賜され、保元二年(1157)には法皇は光明坊を天下泰平の祈願所とするべく法皇の荘園であった生口南の庄を光明坊の寺領として寄進された。

このことからこの辺りの地名が「御寺(みてら)」と尊称されるようになって、現在もここの地名となっている。

時は下って建永の法難により、法然上人(1133~1212)が讃岐国へ流罪となったことを知った如念尼公は、自ら帰依している法然上人のお心を少しでもお慰めしようと光明坊にお招きすることにした。

島民もこぞって法然上人のもとに集って来て歓待したという。

このことに感激した法然上人は自らの手で、「自身の影像」と「如念尼公の像」を刻んで贈り光明坊に対する感謝の気持ちを示された。

法然上人はその作業に当たって皇女のいる寺に泊り込みで作業をするわけにもいかないので、同じ生口島の「法然寺」から通ってその像を刻んだと云われ、「法然寺」から光明坊の途中に法然上人が衣を掛けて休憩したという松の木(但し、この松は枯れてしまって現在は切り株となっている)があったとのお話を「法然寺」の御住職から伺った。

光明坊文書には如念尼公となっているが、後白河法皇の第三皇女ということは式子内親王(しきしないしんのう)ということになる。

小倉百人一首の「玉の緒よ絶えなば絶えね 永らへば、忍ぶることの弱りもぞする」(私の命よ、どうかもう絶えるなら早く絶えてしまっておくれ。

今はどうにか苦悩に耐えているが、このまま生きながらえていたら、秘めた恋を隠しておく力が耐えきれず弱ってしまうかもしれないから)の和歌の詠み人である。

この歌の恋の相手が誰なのかが昔から問題になっていて、彼女にとっての忍ぶる恋の相手は永らく、藤原定家ではないかとされていたが、最近になって法然上人が式子内親王の臨終の間際に送った手紙が発見され、忍ぶる恋の相手は実は法然上人であったのではないかとの説が有力になっている。

それは、死が迫っていた式子内親王が「もう一度あなたにお会い出来ないものか」との手紙を法然上人に送ったところ、法然上人は式子内親王の元へ駆けつけたい気持ちを抑えて、手紙をしたためることにして彼女に送った。

今回発見されたのがこの手紙で、「この世のことは夢まぼろし、ひたすら念仏を唱えて下さい。そして浄土で又再会し、二人で蓮の上でこの世のことをゆっくり語り合いましょう。」と女人往生も説いた法然上人の熱い息使いが感じられる内容になっているのである。

光明坊文書では如念尼公はこの地で亡くなったとされているが、歴史書では式子内親王は建仁元年(1201)に京都で四十九歳で亡くなっており、残念ながら二人は全く別人物のようである。

一方、松虫・鈴虫という二人の侍女については、建永元年(1206)後鳥羽上皇の寵愛を受けていたという二人の女官・鈴虫と松虫の姉妹は後鳥羽上皇が紀州熊野に参詣の留守中に鹿ケ谷の専修念仏に帰依し、上皇の許しも得ず落飾して尼となってしまった。

熊野より還幸された上皇はこのことを知り逆鱗のあまり、出家させた草庵の住蓮(じゅうれん)上人を近江の国の馬渕村(まぶちむら)で、もう一人の安楽上人は京都の六条河原で斬首の刑に処した。

迫害はこれに止まらず、建永二年(1207)、二人の師であった法然上人は讃岐の国へ、親鸞聖人は越後の国へ流罪に処された。

これが建永の法難である。藤原定家の「名月記」にはこの建永の法難を逮捕される者、拷問される者筆舌に及ぶところではないと記している。

金戒光明寺三門

その後、松虫・鈴虫は生口島の光明坊に移り住み、念仏三昧の余生を送ったとされる。

讃岐に流刑となった法然上人がこの二人のことを案じて光明坊に来島されたのはこの頃であったのかもしれない。

松虫は三十六歳、鈴虫は四十五歳で亡くなったと伝えられている。現在、鹿ケ谷の草庵は法然上人が二人の名を取って「住蓮山安楽寺」として再建され、京都東山の哲学の道を少し東に入ったところにある。冬至の日には中風除けのカボチャを振舞っていただけることでも有名である。

文政三年(1820)の光明坊文書に、慶長十四年(1609)、京都の金戒光明寺が炎上し、御本尊も灰塵と帰してしまって困り果てていたところ、天下人となった徳川家康が芸備四十九万石の領主である福島正則に命じ、光明坊にあった「法然上人が自ら刻んだという御影」を金戒光明寺に遷座させたという話が書き記してある。

京都の左京区黒谷にある金戒光明寺は京都の人たちからは親しみを込めて「黒谷さん」と呼ばれているが、この寺は法然上人が比叡山での修行を終えて、この地に草庵をむすんだのが始まりである。

応仁の乱に羅災し、さらにその後の数回の火災によって堂塔を焼失したが、その都度、公武の庇護によって再建されて今日に至っている。

山門には後小松天皇より下賜されたという「浄土真宗最初門」(法然上人が最初に浄土宗を示された場所との意味)の勅額が懸かっている。

この山門は万延元年(1860)の建物であるが、禅宗寺院によく見られる三門(三解脱門)形式となっており、禅宗以外の寺院でこの形式が見られるのは、知恩院山門とここだけであり、双方とも浄土宗の本山である。

この山門の楼上には、中央に釈迦三尊、その両脇には十六羅漢が安置されており、天井には「龍」(幡龍図)が一面に描かれていて禅宗寺院の法堂(はっとう)を思わせる。

この山門を抜けた正面の御影堂(大殿(だいでん))堂内内陣正面に、まさに光明坊から遷座された法然上人七十五歳の自作の御影が御厨子の中に神々しく奉安されている。

堂内には他に本朝三大文殊の一つで、「中山文殊」と言われ、奈良の「安倍の文殊」、天の橋立の「切戸の文殊」と共に古来より信仰を集めている渡海文殊形式の文殊菩薩も安置されている。又、方丈礼の間には久保田金僊(くぼたきんせん)の筆によるユーモラスな虎の絵が参拝者を迎えてくれている。

長講堂(京都市下京区本塩竃町)

山門楼上からの眺望は抜群で、この山門で観光ガイドされていた山本さんが大阪方面も良く見通せることから、同じく大阪方面を見る事が出来る高台寺で余生を過ごしていた北政所(寧々(ねね)さん)は燃え上がる大坂城を見てどんな思いであっただろうかと語っておられた。

又、ここ金戎光明寺は幕末の文久二年(1862)会津藩主・松平容保(かたもり)公が京都守護職を命じられ、その会津藩の本陣が置かれた場所でもある。

京都守護職御預かりとなった新選組の近藤勇・芹沢鴨等が始めて容保公と拝謁したと言われている部屋があり、境内には会津藩殉難者の菩提を弔った会津墓地もある。

他に境内には徳川二代将軍徳川秀忠の菩提のために建立された三重の文殊塔、三代将軍徳川家光を育てた春日局や淀君の妹で秀忠の室であるお江さんの供養塔もある。

又、この寺には建暦二年(1212)正月二十三日法然上人の入滅の二日前、自らが筆をとって弟子の勢観房源智(ぜいかんぼうげんち)上人(平重盛の子供)に与えられた御真筆である浄土宗の無二の霊宝「一枚(いちまい)起請文(きしょうもん)」が残っている。

さらに恵心僧都源信の作と伝えられている「山越阿弥陀図」も寺宝となっており金戒光明寺では不定期に公開されている。

そもそも生口島は長講堂領の一つであった。長講堂は平安時代の末期寿永二年(1183)、後白河法皇が晩年を過ごした院御所「六条殿」内に建立した持仏堂(じぶつどう)が起こりである。

後白河天皇は、譲位して上皇となってからも三十余年にわたって院政を行い、嘉応元年(1169)には仏門に入り法皇となった。

長講堂は正式には「法華長講彌陀三昧堂(ほっけちょうこうみださんまいどう)」と称し、法華経を長時間講じ、阿弥陀仏を念じて精神集中の境地に入る道場という意味がある。建久三年(1192)法皇は長講堂起請五ケ条を定め置かれ、当堂の護持を願われた。

これが長講堂領の端緒であり、その後、長講堂領は荘園史上最大の皇室御領となっていく。

法皇が崩御される前には、式子内親王の経済的背景にと因島の御領を彼女に与えている。長講堂は天正六年(1578)豊臣秀吉による京洛整備の際に、現在の下寺町(下京区富小路通り五条下ル)の地に移転している。

当時の事を御住職に伺ったところ、生口島は安芸の国の西の玄関口が厳島神社なのに対して、安芸の国(備後国)の東の玄関口となっており、光明坊では沖を出入りする船に通行許可の札を発行する検問所的な役割も負っていたようだとお話をして下さった。

光明坊の御影堂には、正面中央に阿弥陀如来像(国の重要文化財で現在は収蔵庫に所蔵・お前立ちは不動明王)、その左側(向って右側)に法然上人、右側に如念尼公、下段左右に松虫・鈴虫の座像がそれぞれ鎮座している。

また脇陣には如念尼公及び松虫、鈴虫が光明坊に乗ってやってきたという輿(こし)が保存してある。境内西側には四基の五輪塔が立ち並んでおり、寺伝によると左から法然上人の墓、次が如念尼公の墓、その次が尼公に従って遁世した松虫と鈴虫の墓であるとされている。

それぞれ墓の高さは微妙に違うが百五十センチから百六十センチほどの五輪塔である。如念尼公の五輪塔の水輪だけが下膨(しもぶく)れの形となっており、他の三つと異なり鎌倉後期のより古い形式になっている。

墓の隣には法然上人が「自分の専修念仏の教えに間違いがないならば、杖(つえ)と共に栄えるであろう」と自らの杖を突き立てたと言われるその場所には、現在うねるような大木に成長した樹齢600年を超すというイブキビャクシン(白檀)の巨木が生えている。

法然上人がここに自分の杖を捨て置いたということは、流罪となった自分は京にもう二度と帰ることはないであろうと讃岐国での死を覚悟していたということなのでしょうねと御住職は仰っておられた。

光明坊にある五輪塔。左から順に法然、如念尼公松虫、鈴虫の墓と伝えられる。

又、御影堂の庭先には永仁二年(1274)、西大寺叡尊の弟子である忍性が建立したという高さ八㍍の花崗岩製の優美な十三重石塔、(国の重要文化財)も残っている。

笠石の厚みを上にいくほど減少させ高さと重厚さを感じさせている。この多層塔を製作した石工は心阿なる人物であるとされている。

この時代は末法思想が流布しており、忍性はその暗い世の中からの脱却を祈って各地に石造物を建立した。この十三重塔もその一つである。

御影堂の背後にある収蔵庫には、光明三昧院の勅額、東寺より請来した仏舎利、松虫・鈴虫が落飾した時の髪の毛、松虫・鈴虫の荷物箱、式子内親王の袴(はかま)(既に傷んで絹の繊維となっている)などの数々の遺品が納められている。

これらの話は史実とは異なる所もあるが、京都と遠く離れた瀬戸内海のこの小さな島に京都との関わりがこんなにも色濃く残っていることに歴史のロマンが広がって興味が尽きない。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

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春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

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