東京物語

「東京物語」といえば昭和二十八年(1953)の十一月に公開された映画で、尾道に住む老夫婦が上京して成人した息子や娘達を訪ねるといったストーリーの中で、その家族達の姿を通じて家族の絆、夫婦と子供、生と死、人間の一生とはといったテーマを、当時尾道ではやっていた瓢箪の小道具をそれとなく飾りつけ、実に淡々とした日常的な描写の中からにじみ出している。

時代の経過と共に画像にレトロ感を感じてしまうのはやむを得ないが、これ等のテーマが普遍的なテーマであるだけに今改めて見ても、私達に色々考えさせる日本映画史に残る素晴らしい映画である。

現在、国際的にも高い評価を受けているのはこれ等のテーマが日本に限ったことでなく各国共通の課題であることの証左であろう。

監督は小津安二郎で主演の老父役での笠智衆(りゅうちしゅう)の独特な落ち着いた演技が光っている。

映画の中で、尾道の浄土寺で朝日が昇るのを見ている笠智衆扮する平山周吉を、原節子扮する紀子が向かえに来るというシーンで周吉が「ああ、綺麗な夜明けじゃった。今日も暑うなるぞ」とつぶやく。

周吉にとっていつも見慣れているはずの風景が、つれあいを亡くしたことでこの日の朝はいつもと違ったものに映っているのである。

妻を亡くした周吉の寂しさや虚しさ、そしてこれから一人で生きて行く不安を見事に表している。

ラストシーンでも「いやァ・・・。気のきかん奴でしたが、こんなことなら、生きとるうちにもっと優しうしといてやりゃァよかったと思ひますよ・・・一人になると急に日が長うなりますわい」と今度は観る側に問いかけて来る。

小津監督の言う「私の映画は終わった時に始まるのです」の通りである。

ノンフィクション作家の西村雄一郎氏は小津映画を年を取れば取るほど分かってくる映画の典型で、自分が人生でそれまで見えなかったものがどれだけ見えてきたかを測定する「リトマス試験紙」の役割を果たしていると述べておられる。

小津監督も「七分目か八分目を見せておいて、その見えない所が物のあわれにならないだろうか」「客に説明しようと思うな。分かる人だけに分かればいい」「語らないで語ろうとする選択は勇気のいる選択だ。まったく伝わらない可能性もある」と語っている。

この映画のロケのため小津監督をはじめ、笠智衆、原節子、香川京子が尾道に来た時は大変な歓迎ぶりであったようである。

特に原節子が到着する時刻には尾道駅の入場券が三千枚も売れ、大勢のファンが今か遅しと待ち受けていたので尾道駅では下車出来ず、次の糸崎駅まで乗り過ごし、糸崎駅からハイヤーで尾道に入ったとのことである。

ロケ隊の宿舎となったのは久保町の竹村屋さんであったが、竹村屋さんは明治三十五年創業の老舗割烹旅館で現在尾道の日本遺産の構成文化財の一つとなっており、大広間には畳五~六枚分もあろうかという程の大きさの伊藤博文侯(明治三十七年来尾)の力強い筆致の書が掲げられている。

竹村屋さんはこの映画の中にも何カットか登場している。

当時、竹村屋さんの周りには大勢の人が原節子等を見たさに三重四重の人垣が出来たという。

そのため詰め掛けた人達で竹村屋さんの塀が押し倒されてしまったそうである。

それだけでなく旅館の南側の尾道水道に貸ボートを出して部屋の中を覗き見る猛者の見物客が右往左往したのだと言う。

「今でもこの映画を見てここに泊りにこられるお客さんがお見えになるのですよ」と女将(おかみ)さんがおっしゃっていた。

この竹村屋さんには豊臣秀吉が京都で政庁兼邸宅とした聚楽第にあったと伝えられる石灯籠がある。

灯籠は花崗岩で出来た雌雄一対のやや小振りの桃型灯籠である。
一基は玄関の通路脇に、もう一基は、原節子が泊った部屋の前の庭に置かれている。

一対といっても高さが微妙に異なり、一・五二メートルと背の高い方が裏庭に、一・三八メートルの小さい方が玄関の通路脇に置かれている。

双方とも笠の部分に豊臣家を示す桐紋(太閤紋)と菊花の紋章(太閤菊)が刻まれており、その笠は伏型で上に宝珠を戴いている。

火袋は茶釜状で小さな四角の火口が付いて障子がはまっており、夜には灯りが入るようである。

裏庭の火口の方がやや大きいためか障子は入れてなかった。中台は大きめの鉢型である。竿は上から下までほど良い太さを保っている。長さも絶妙である。基礎は亀腹型で、灯籠控の木も配され興をそそる灯籠である。

この灯籠の履歴を辿ると、「もともとは福山市藤江町出身の幕末の漢学者山路機谷(やまじきこく)の義理の祖父にあたる、山路重好なる人物の洛東の別邸に有ったものであるが、山路重好の没後、福山市藤江町に設けられた茶室「白雪楼」に移設された。

明治二十四年(1891)、山路家の没落によって、庭地は竹原の頼家が買い取ったが、灯籠は茶室の傍らに取り残されており、それを見た竹村屋さんの御主人武田英一氏の父親が大正末頃に買い取って、尾道へ持ち帰ったと伝えられている」(参考・山陽日日新聞社刊行 心のふるさとシリーズ『郷土の石ぶみ』)

竹村屋石灯篭

聚楽第は秀吉が関白になり豊臣の姓を賜った絶頂期の天正十四年(1586)二月に着工し、翌十五年九月に竣工させた。

天皇が居られて朝廷が権力を持っていた京の町(内野(京都市上京区))に正面から乗り込んだ自らの権力の象徴となる政庁兼邸宅である。

天正十六年(1588)四月には聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぎ、皇位を威光として豊臣政権の権威付けを図り、諸大名に秀吉への忠誠を誓わせた。

朝顔がまだ珍しい頃のこと、聚楽第近くにあった千利休の屋敷の庭の朝顔が評判になった。

その評判を聞きつけた秀吉が朝顔を見に来るという朝に、利休は庭の朝顔を全部摘み取ってしまい、一輪だけを屋敷内の茶室に飾った。

まかり間違えば秀吉の逆鱗に触れてというところであったが、逆に秀吉はその緊張感のある利休の美意識に感心したといったエピソードも残っている。

聚楽第址碑

天正十九年(1591)十二月二十八日、秀吉は家督及び関白職を甥(姉・日秀(とも)の子)の豊臣秀次に譲り渡した。

しかし、文禄二年(1593)八月三日、捨丸(秀頼)が生まれると秀吉は手のひらを返すように文禄四年七月、わが子可愛さからか秀次に謀反の疑いをかけ、高野山に追放して切腹させただけでなく、妻子三十数名を三条河原で処刑した。

秀次の居城となっていた聚楽第も秀次の存在そのものを消し去るかのように翌八月以降、堀は埋められ、建物の基礎の部分に至るまで跡形もなく徹底的に破壊した。

現在、聚楽第から移築されたと言われている建造物としては西本願寺の飛雲閣、醍醐寺三宝院の藤戸石、妙覚寺の大門、山口県萩市常念寺の山門などと少なくないが、いずれも確証がなく伝承の域をでていない。

今のところ聚楽第の遺構と認められている建造物は、平成十五年の修理の際に飾り金物から「天正」の銘が発見された大徳寺の唐門だけとされている。

聚楽第の跡地も現在家屋が建ち並んで大規模な発掘調査が出来ない事と、僅か八年で取り壊された為に構造など不明な点が多い。

平成四年、西陣公共職業安定所の建設工事の際、本丸東堀跡の遺構が見つかり大量の金箔瓦が出土した。

又、平成十六年に発見された「洛中洛外図」(江戸初期制作)などの絵図によると北堀が元誓願寺通り、東堀が堀川通、南堀が上長者町通、西堀は堀川通付近にあったものと推定され、東西約六百メートル、南北約七百メートルの壮大な城郭風の邸宅であったことが解ってきている。

位を極めた秀吉であったが、卑賤の身から出世したためか譜代の家臣という者達がいなかった上に、信長時代からの秀吉に仕えていた家臣までも排除したこともあって、天正十九年、ブレーキ役であった弟の秀長が亡くなってからは秀吉にとって心から頼れる者が居なくなり、豊臣政権内部の対立は一層激化していった。

二条城が約二百五十余続く徳川幕府の始めと終わりのアイデンティティになったように、歴史にタラはないが、豪壮な聚楽第が破却されずに京都に残っておれば豊臣幕府の拠り所として、又、権力の象徴として豊臣政権が違う形で存続していたかもしれない。

秀吉の辞世の句は「露とおち 露と消えにし我が身かな 難波のことも夢のまた夢」であるが、求めても求めても休まる事の無い悲しいほどの心情が伝わってくる。

後年ねね(北政所)が移り住んだ京都東山の麓(ふもと)にある高台寺では近年夜間にライトアップが行われているが、臥龍池(がりゅうち)に映る驚くほど神秘的な紅葉や竹林を見ようと受付を待つ長蛇の列に驚かされるが、秀吉と北政所を祀る霊屋(たまや)は桧皮葺の宝形造(ほうぎょうづくり)で桃山時代らしい豪奢(ごうしゃ)な装飾がされ、内部の須弥壇、厨子の蒔絵装飾は高台寺蒔絵と呼ばれ見事なものである。

その秀吉が安置されている霊屋の扉には、辞世の歌にある笹の葉に朝露がいままさに落ちんとする蒔絵が施されている。

現在この蒔絵の絵が高台寺入場時受付で配られるパンフレットにもなっている。

小津監督が尾道を何故(なぜ)「東京物語」の舞台に選んだのかについては、竹村屋さんの遠縁の方が撮影スタッフにいたことと、小津監督が敬愛していた文豪志賀直哉が移り住んで名作「暗夜行路」を執筆し始めたゆかりの地をであったこと、さらに、お隣の三原市の宿祢島(すくねじま)で「裸の島」を撮った監督仲間の新藤兼人監督のお兄さんの下宿先が尾道にあって新藤氏も若い頃この尾道に暮らしていたことがあったからだと言われているが、聚楽第にあったと云われる石灯籠のある尾道の竹村屋さんに泊り込んで、一貫して日本の家族のありようを追い続けた小津監督によって「東京物語」が作られたことは、秀吉にとってなんという皮肉であろうか。

東京物語について小津監督は「親と子の成長を通じて、日本の家族制度がどう崩壊するかを描いてみたんだ。

ぼくの映画の中ではメロドラマの傾向が一番強い作品です」と語っているが、決して通俗的な感傷的な恋愛劇としてでは無く、全ての人が避けて通れないであろう人生の様々な苦しみを誠実に問うた映画となっている。

映画の終盤で小津監督は「おさびしくなりましたなー」と警鐘を鳴らしているが、昨今家族関係と言うだけでなく人々が優しさや思いやりを見失い、関係性がどんどん希薄になっている事を改めて思わざるを得ない。

このことは形こそ違え、豊臣の「家」の弥栄(いやさか)を希求して亡くなった秀吉と重なってくる。

聚楽第にあったと言う石灯籠が家族の絆の儚さを今一度考えるきっかけに是非撮って欲しいと小津監督一行を尾道に呼び寄せたのかもしれない。

志賀直哉は「この映画には嘘がない。良い小説を読んだ後のような感銘を受けた。小津君の作品の中では一番いい」と新聞広告に載せ、「小津君の今度の写真は劫々(なかなか)いい、後味のいいものです」と昭和二十八年十一月九日に奈良東大寺の上司海雲宛に葉書を送っている。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

尾道の観光スポット

春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

歴史的な名所を訪れるのも良し、ゆっくりと街並みを歩きながら心穏やかな時間を過ごすのも良し、美味しい食事を心ゆくまで楽しむも良し。

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