天寧寺

尾道市東土堂町にあって山号を海雲山という天寧寺(てんねいじ)は、貞治六年(1367)尾道の豪商・万代道円の発願により、足利第二代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)が父足利尊氏の遺志をついで創建したものである。

開山は臨済宗天龍寺派大本山天龍寺の住持、普明国師(春屋妙葩(しゅんおくみょうは))である。国師は夢窓国師のもとで修業し、足利義満に請じられ相国寺の第二世住持となった人で、京都五山ではトップクラスの国師である。

天寧寺

その普明国師が巡錫(じゅんじゃく)の途次、尾道に立ち寄った際豪商の万代道円からの帰依を受け建築がなったと言われている。

創建当時は七堂伽藍が並び立った豪壮な大寺院で、寺域は東西三町約九千坪あり、臨済宗派の寺院として隆盛を極めた。

室町時代中期には五山に次ぐ十刹の一つとして幕府から指定され、京都の等持寺などと同格になっている。

十一年後の嘉慶二年(1388)には道円の子、道慶が五重塔を建立している。

千光寺山中腹に建つ現在の海雲塔(かいうんとう)である。

足利四代将軍義持の時代、李氏朝鮮の官人宗希璟(ソンギヒョン)が日本への回礼使としてソウルから京までを往復した際の見聞や感慨を書き留めた紀行詩文集である「老松堂日本行録」(老松堂(ノシヨンダン)は宗希璟(ソンギヒョン)の号)が残っていて、これには応永二十七年(1420)四月四日、京都に向かう途中船を止めた尾道の繁栄ぶりを「人家は岸に沿い屋根は接し寺院は山上に連なる」と記している。

又、京で将軍義持に謁見した後、七月八日再び尾道に立ち寄った時、天寧寺を「海雲山上に仙家あり 仏殿僧窓は大河に俯したり 来たり見る扶桑に勝地開くを 我今ここに書して京華説かん」「傑閣(けっかく)なり天寧寺 江に臨みて塔は幾層なる 門前に喧価(そうか)の客 堂上に定禅の僧 竹影は階(きざはし)を侵して 松声は座に入りて清し」と記録している。

当時の天寧寺界隈の賑わいの様相が伺える。

※大河…尾道水道。扶桑…日本。勝地…優れた景色。京華…朝鮮の都。傑閣…大きく高い建物。喧価…大声で商品の値段を掛け合うこと。定禅…修行すること。

足利幕府の消滅と共に、寺運が衰退していったが、寛文七年(1667)三原の一雲椿道(いちうんきんどう)によって再興され、これを機に臨済宗天龍寺の末寺から曹洞宗宗光寺の末寺へ転宗し、寺勢を回復していたが、天和二年(1682)落雷のため、海雲塔(五重塔)だけを残して伽藍が全て焼失してしまった。

尾道天寧寺海雲塔

その唯一残った五重塔も長年の風雪により上の二層の上層部の傷みが酷くなって来たため、元禄五年(1692)相輪の露盤台の基礎部分はそのまま使って、上の二層を取り外し三重塔に改修された。

それでも日本最古の禅宗様の構造物は現在、坂の町尾道を象徴するランドマークとなっており、国の重要文化財にもなっている。

粽の太い柱や扇垂木、軒を深く見せている三手先の木組み等の禅宗様の特色を間近で見る事が出来る。

瓦敷きの塔内には釈迦入滅後五十六億七千万年後に現れ、釈迦に代わって衆生を救って下さるという弥勒菩薩座像がお祀りされている。

天寧寺の法堂、庫裏は江戸時代の宝永年間(1704~1711)に再建されており、昭和十五年前後までは僧堂として雲水が修行に励んでいたが、戦時下となって以降僧堂は廃止された。

法堂の御本尊は宝冠釈迦如来坐像で象に乗った普賢菩薩、獅子に乗った文殊菩薩を脇侍としている。

如来は本来衣単衣のお姿であるが、ひたすら修業をしていて悟りを開かれたまさにその時の姿をとどめているため結果的に着飾ったお姿の鎌倉時代の特長が見て取れる。

その須弥壇は左右を大振りな二匹の獅子によって挟み込んだ「獅子座」(高僧の座)という珍しい配置の設えがしてある。

又、木造地蔵菩薩半跏像は小品ではあるが、衣の襞の線(衣紋(えもん))が美しく室町初期の特徴をよく表しており尾道市の重要文化財となっている。

本堂内部の襖絵は淡路島の名誉市民でいらっしゃる直原玉青(じきはらぎょくせい)氏の力強い筆致による「牡丹に遊ぶ獅子」との力作で、ここで行われる仏法の世界を表している。

境内の牡丹園の中に長崎で江戸時代の末期から明治時代初期にかけて起きた大規模な潜伏キリシタンの摘発事件で逮捕されたキリスト教徒二十八人がこの天寧寺に二週間留め置かれ、その後山口県津和野に配流されていったという記憶を留めるべくキリシタン燈籠が置かれている。

又、鐘楼堂の山門の軒先の丸瓦と山門をくぐった左側にある水屋の軒先の丸瓦には足利家の二つ引き両の家紋が入っている。

足利義満の時代は地方の守護大名がそれぞれに勢力を拡大して足利幕府の足元が揺らぎ始めていた。

その為義満は厳島詣にことよせて西日本の幕府勢力の拡大と将軍親政の強化を図ろうと、康永元年(1389)三月四日京都を出発した。

往路では讃岐に寄って一時讒(ざん)にあって讃岐に引きこもっていた旧管領の細川頼之(よりゆき)も義満の呼出しに応じて参詣に加わっていた。

厳島詣とは言いながら、九州にも渡って幕府の威信を示そうと目論んでいたが周防灘で暴風雨に遭ってやむなく引き返した。

一方、この頃、備後の国府であった神辺に居をかまえていた守護大名の雄である山名時義(ときよし)は病気療養のために但馬に帰っていた。

当然、義満の呼出しには応じられず、参詣には姿を見せることが出来なかった。

その代理として息子の備後守護山名時熙(やまなときひろ)(山名宗全の父)が周防までやってきて、今回父が供出来なかった訳や御戻りの際には是非尾道の天寧寺に立ち寄って欲しい旨言上したが、義満は時義が六分一氏と呼ばれていい気になっているのではないかと思っていた。

山名時義は元々将軍に対して不遜であった上に、時義の子供である但馬の守護時煕、伯耆の守護である氏(うじ)幸(たか)もその指示に従っていて、いつか将軍である自分に叛いてくるのではないか、お供にも参上しないで時義は自分を軽んじておるのではないかと考えていた。

しかしその時時義は仮病でなく実際に城崎で臥せっており、この年の五月四日に亡くなっている。

足利将軍室町第址碑

尾道の天寧寺は尊氏が建てた京都の臨済宗天龍寺派の大本山天龍寺の末寺で、尊氏の遺志を継いで義満の父足利義詮が建てた寺であった上、東西三町の大寺で聞けば五重塔も一年前に出来たばかりで壮大な大伽藍が整ったところであるという事に興味本位から、義満は帰りの道すがら尾道に行ってやるかぐらいに考えていた。

嘉慶三年(1389)三月二十一日朝、義満の御座船は糸崎沖から尾道水道に入り尾道浦に接岸した。

義満は桜の花びらの舞い散る千光寺山腹に新調になったばかりの赤い天寧寺の五重塔を見上げながら、はしけ船を使用せずに御座船から船を並べ、ばた板と呼んでいる足場板を架けた浮橋の上を歩いて天寧寺に入った。

如何にも堂々と天下人らしい威厳を示すことができ義満もご満悦であった。

この日の接待は予め父時義が息子の時熙に山名家は二心(ふたごころ)が無いことを示すようにと厳命していたことであった。

義満は時熙等の饗応で海から遠い京都では決して食べれなかった新鮮な尾道のおこぜ料理や身のしまった桜鯛の刺身やしゃぶしゃぶ等(など)が提供されて、さすがに気をよくしたことであろう。(この時期尾道では百貫島辺りに産卵の為集まって来る鯛を敢えて桜鯛と呼んでいる)

この旅は義満にとって西国の守護大名達に幕府の威力を示すこととなり狙い通り上首尾に終わった。

同時に尾道が瀬戸内海を航行する際の港町として改めて認知されることにもなり、明との貿易の際の重要な中継基地として存在を更に高めていくことにもなった。

明徳元年(1390)、義満は結局、自分達は源氏の名門で足利と同じ義国を祖とした新田の一族である事を鼻に掛けて、足利を軽く見ている時煕、氏幸の横暴に我慢ならず、叔父の氏清(うじきよ)と師義の息子である満幸に命じて二人の討伐を命じた。

結果、氏清には但馬と山城、満幸には伯耆と隠岐の守護職が新たに与えられた。

これに対して時煕、氏幸が義満に侘びをいれたことで、前言を撤回して義満は領土を元に返すとした。

しかし今度はそれに氏清と満幸が収まらず室町幕府に対して反乱を起こした。

しかし明徳二年(1391)の「明徳の乱」で氏清が敗死すると、論功行賞の結果十一カ国の守護職を誇った山名氏は時煕の但馬、氏家の因幡、氏幸の伯耆の三カ国の守護職のみに減らされて諸将に分配された。

やはり山名氏はどこかに将軍に対する奢りのようなものがあったことは否めない。

この山名家の内紛の企てを図ったのが義満の輔導担当であった細川頼之であったのではないかとの噂が後年の山名の西軍、細川の東軍の応仁の乱の勃発の引き金に繋がっていく事になった。

一方でかねてから山名氏の強大な勢力を苦々しく思っていた義満は源氏一門の氏の長者としての地位を不動のものにして行く事になった。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

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春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

歴史的な名所を訪れるのも良し、ゆっくりと街並みを歩きながら心穏やかな時間を過ごすのも良し、美味しい食事を心ゆくまで楽しむも良し。

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