千光寺

尾道はレトロな町である。尾道の港は瀬戸内の温暖な気候と共に対岸の向島が波消しブロックとなった天然の良港として嘉応元年(1169)、後白河法皇より大田庄の倉敷地とされて以来繁栄を遂げてきた。

港の発展により江戸時代には芸州藩に毎年六万両程(六十億円)上納して「政治は広島、財政と文化は尾道」と言わしめる程であった。

明治十一年(1878)、広島市に先駆けて尾道に第六十六国立銀行が創業されている。

現在広島市の中区に本店のある広島銀行の前身である。又、明治六年に発足した住友家の尾道分店は明治二十五年、別子銅山及び別子銅山の精錬所のある四阪島(しさかじま)の物資調達の中継基地となっていた。港には専用の住友桟橋もあった。

別子銅山の経営を契機にして繁栄した住友家は明治二十八年、尾道での重役会議において銀行の開業を決定しているが、尾道の分店は神戸支店と共に支店(現、三井住友銀行尾道支店)として全国で初の住友銀行の支店となっている。

当時物流の拠点であった住吉浜の近くの米場通りに明治三十七年、住友銀行尾道支店が竣工しているが、残されている棟札には東京駅を設計した辰野金吾が住友本社建築部顧問という肩書で、建築部技士長であった野口孫一を設計指導したと書かれており、今もその当時の建物が残されている。

尾道は造船の町とも言われる。

明治三十九年向島の小歌島で松葉嘉吉が創業した松葉鉄工所は紆余曲折を経ながら現在向島ドッグとして事業を展開している。

明治四十四年大阪鉄工所は日露戦争後の不況で休業閉鎖中であった因島の因島船渠㈱を買収し、大阪鉄工所因島分工場として船舶の修繕を中心に経営を始めた。その後向島船渠㈱も吸収し、昭和十八年には日立造船㈱向島工場と社名を変えて変貌を遂げていき、活況の軍需景気もあって一時は従業員五千人をも抱える巨大企業と成長していった。

その為尾道と向島を結ぶ渡船場は九ヶ所もあったという。その後、業界の好・不況の波に翻弄され、オイルショック後の昭和五十一年因島と向島の両工場は広島工場として因島で一つに統合され、対岸の向島工場は新造船工事を停止し鉄骨構造物等の工場として再出発しているが渡船場も三ヶ所となり往時の活況は望むべくもない。

千光寺本堂

尾道は寺の町とも言われる。江戸時代の豪商達が自分達の菩提寺を競(きそ)って作った名残であるとも言われ、江戸初期には八十一カ寺もあったという。

現在でもそれでも二十五カ寺が残っている。前面に尾道水道、背後に大宝山・摩尼山・瑠璃山の尾道三山に囲まれた狭いエリヤにしては頗る数が多い。

全国的に見ても稀有なことである。西の京と言われる所以である。

西国街道であった現在の本通り商店街に沿って家並みが小さな肩を寄せ合うように東西に伸びているが、そんな中でも大きな寺の屋根が目立っている。

昭和七年「大屋根はみな寺にして風薫る」と詠んだのは、この地を訪れた「ふじの山」の作詞家で児童文学者でもある巌谷(いわや)小(さざ)波(なみ)である。

千光寺には尾道を訪れる観光客の半数近くが訪れていて、尾道観光の中心となっている。千光寺は寺伝によると開基は大同元年(806)で、中興の祖は源氏の名将多田満仲と伝えられている。

山号は「大宝山」で、宗派は「真言宗」である。しかし多田住職はそれより以前からこの山からの景観の素晴らしさや大坂城の石垣となった巨石や奇岩を当時の人々が自然に対する畏敬の念を持って信仰の対象としていたのでしょうと仰っておられる。

確かに境内にはびっくりするほどの巨石があり、千光寺第三の巨岩である「玉の岩」にはその昔、頂に如意宝珠があって、別名を烏帽子(えぼし)岩、宝殊(ほうしゅ)岩、如意石(にょいのいし)と呼ばれている。

夜はそのてっぺんの光る玉が町中を照らし出していて提灯を持って出歩かなくてもよかったとの伝説が伝えられている。

この「玉の岩」から尾道を平安時代から「玉の浦」と呼んで「ぬばたまの夜は明けぬらし玉の浦にあさりする鶴鳴き渡るなり」という古歌が古くから愛誦されている。

千光寺の名も山号である大宝山もこの光る玉に由来するとも言われている。志賀直哉の「暗夜行路」にはこの「玉の岩」の昔話から材を取った話が出てくる。

朱塗りの本堂は赤堂と呼ばれ、貞享三年(1686)の建物で御本尊である十一面千手観世音菩薩は聖徳太子の作として伝えられていて、三十三年に一度の御開帳の秘仏となっている。

本堂は山の傾斜地に建てられているため舞台づくり(懸作り)となっており、その舞台の上からはるか四国の石鎚山までを望む瀬戸内海の眺望は素晴らしい。ここでJR西日本のデッスカバージャパンのPR用ポスターの撮影も行われた。

本堂西南側には寛政四年(1792)、芭蕉の百回忌ということで、当時尾道に庵を結んでいた俳人の長月庵若翁を中心に俳人五十二人が集まって句会が行われ、その記念にと建てた芭蕉の「うきわれを寂びしがらせよ閑古鳥」(閑古鳥に是非頼みたい。もの憂い私に寂しさを楽しむぐらいの境地にまで誘って貰えないだろうか) (寂しさは一人で耐えてこその寂しさである。寂しさがあるからこそ寂しくしていられる)との何やら禅問答のような句碑が建っている。

ちなみに尾道の正授院(長江)には長月庵若翁の「蓮に座して今や真如の月見かな」という味わい深い句碑も残されている。

江戸時代、北前船の寄港により繁栄を極めた港町尾道には茶園(さえん)文化(茶室と庭園)が醸成され、多くの文人墨客も逗留して賑わっていた。

それが現在も「おのみち俳句まつり」という形で受け継がれており、公募して入選した句が春千光寺公園の桜の下の雪洞(ぼんぼり)に作者の名前と共に記されて春の夜を飾っている。

この句碑の西側の三十三観音堂には「大悲閣」との扁額が掛けられており、西国三十三観音霊場の一番寺札所の青岸渡寺の御本尊如意輪観音像から、三十三番寺である谷汲山華厳寺の御本尊、十一面観音像までの三十三の観音像が一堂に納められている。従ってここにお参りするだけで西国三十三観音霊場巡りの宿願が果たせるようになっている。

又、扁額の前に桜の樹で造られた大きな一〇八個の数珠玉が吊り下げてあり、願いを念じながらゆっくり引っ張って廻すと上から数珠玉が落ちて来てカチカチと音が鳴る仕掛けになっている。

この音で人間の苦しみをもたらす根源である煩悩を打ち砕き観音様のご加護が頂けるとのことであった。

尾道の千光寺とは名前が同じというだけで特に関連は無いが、京都にも千光寺という名の寺が京都市西京区嵐山中尾下町にある。

この寺は正式には嵐山大悲閣千光寺と言って、三十年ほど前までは黄檗宗の寺院であったが、現在は単立の臨済系の禅寺で、山号は嵐山、御本尊は恵心僧都作と伝えられている千手観音菩薩立像である。

長崎県御出身の大林住職はここを訪ねて来た人達からよく寺名に「悲しい」という字はそぐわないのではと言われるそうで、その度に「大悲」の「悲」は観音菩薩の広大無辺の慈悲の「悲」からきており、観音様が苦しんでいる人達を救って下されようとしておられるのですよ。

そして平地にある観音堂は「大悲堂」、山の上の観音堂は「大悲閣」と呼んでいるのですよ。と優しくお話しして下さった。

この寺に行くのには渡月橋を南に向かって渡り、さらに大堰川(おおいがわ)に架かる渡月小橋を渡った南詰めから、山の緑を映した瑠璃色の保津川に沿って上流に進み、途中保津川下りの観光船の終着点を右対岸に見ながら、楓や桜の木立の中に続く小道を登り下りして十五分程行った所に「大悲閣道」と書いた緑泥片岩の石碑が建っている。これがこの寺の入口である。

道中は嵯峨野界隈の喧騒に比べて比較的観光客も少なく静かな散策を楽しめる。

この嵐山大悲閣千光寺は慶長十九年(1614)、京都の豪商板倉了以(すみくらりょうい)が現在の金額で百五十億円もの私財を投げうって自らの隠居場として創建したもので、板倉了以は京都市内を流れている高瀬川を五条から南を天正十五年に、二条から五条までは慶長一七年に開削している。

その他保津川、富士川、天龍川等の大小河川を開削し船運の便益に貢献した他、徳川家康より朱印上を得て主にベトナムなどの南蛮貿易でも功績を挙げた人物である。

現役時代は現在中京区の東生洲町(ひがしいけすちょう)にある料亭「がんこ高瀬川」辺りに彼の邸宅があった。晩年はこの地に隠棲し、もっぱら開削工事で亡くなった人々の菩提を弔ったという。

了以の念持仏であった御本尊の作者と言われる恵心僧都は往生要集を著して浄土思想を広め、ともに比叡山で学んだ浄土宗の宗祖法然や浄土真宗の宗祖親鸞に強い影響を与えた人物である。

本堂横には板倉了以の遺言によって作られた巨縄を巻いた形の円座(木彫り)に座し、法衣姿で石割斧(おの)を持った等身大の自身の像も安置されている。

本殿、客殿は標高千メートル程の位置にあって「大悲閣道」と書かれた石碑の場所からは急な二百段程のつづら折りの石段を登らなくてはならない。

了以はこの十五分程のきつい登り道を浄土に誘(いざな)うアプローチとして世俗との退路を断つための手立てとしたのかもしれない。

又、恵心僧都が空也上人から学んだという「穢土を厭い浄土を喜ぶ心切なれば、などか往生を遂げざらん」と穢(けが)れの多い現世から浄土に生まれ変わることを強く望んだ「厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)」とのメッセージなのかもしれない。

大悲閣千光寺客殿から京都市街を望む

歌人吉井勇は尾道の千光寺で「千光寺の御堂へのぼる石段はわが旅よりも長かりしかな」と詠み、この大悲閣千光寺では「大悲閣君とのぼればほととぎす啼(な)きてかなしき夏木立かな」と詠んで、いずれも長い石段を登りながら意のままにならないこの世の中の事を思って足取りが重くなっている。

芭蕉も「花の山二町のぼれば大悲閣」とやや悟入しきれていないが歌を詠んでいる。

懸造りの客殿からは対岸の亀山越しに東山三十六峰の懐に抱(いだ)かれた京都の町を下瞰(げかん)することが出来る。

坂道で足はかなり重くなっていたが、客殿からのこの眺めの素晴らしさに疲れもすっかり忘れさせてくれた。

遥か下を流れる保津川を下る観光船の櫓(ろ)の撓(しな)る「ギィー・ギィー・ギィー」という音が伝わって来る。

誰かが下の鐘楼で撞(つ)いた鐘の音が嵐山の谷あいに響き渡ったと思うと直ぐにその中に溶け込んで再び静寂がおとずれた。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

尾道の観光スポット

春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

歴史的な名所を訪れるのも良し、ゆっくりと街並みを歩きながら心穏やかな時間を過ごすのも良し、美味しい食事を心ゆくまで楽しむも良し。

大人な遊び方ができる尾道において「尾道に来たら、ココだけは行って欲しい!」という、管理にイチオシの観光スポットを紹介しています。詳しくはこちらのページを読んでみてください。
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