小督局

高倉天皇の時、桜町中納言成(しげ)範(のり)の娘で小督(おごう)といって琴の名手でたぐいまれな美しい女性がいた。

冷泉大納言隆房(たかふさ)は小督を一目見て恋心をいだき求愛していたが、高倉天皇が後宮(皇后・中宮などの住まれる御殿)に小督をお召しになり、隆房は泣く泣く別れざるを得なかった。

それから小督は高倉天皇の寵愛を一身に集める事となった。そして、ついには子供(範子内親王)の誕生にまで及んだ。

当時、高倉天皇の中宮は最高権力者平清盛の次女(平(建礼門院)徳子)で、隆房の妻は平清盛の四女であったので、清盛は「これでは娘達があまりにも可哀想だ」と腹を立て「小督など殺してしまえ」と命じる。

清閑寺

この事にいち早く気付いた小督は自分の身はどうなってもかまわないが、高倉天皇が苦しまれるのだけは忍びないとこっそり内裏を抜け出し姿を晦(くら)ましてしまった。

そんな健気な小督のことを高倉天皇はどうしても諦めきれず、家来の藤原仲国(ふじはらなかくに)等に「なんとしても小督を見つけ出せ」と指示し捜させる。

いろいろつて(・・)を頼って何日も捜し訪ねるものの小督はなかなか見つからなかった。

ある日、仲国が嵯峨野の渡月橋のほとりを空しく通り過ぎようとしていた時、秋の夕暮れの中に琴の音が微(かす)かに聞こえてきた。

その調べに誘われるように近寄ってみると、その琴の音は想夫恋(そうふれん)という夫を恋うる歌を奏でていた小督であった。

高倉天皇はすぐに小督を御所に連れ戻した。

ところが清盛は小督がすでに死んだものとばかり思っていたので、その事を知った清盛は「小督めを御所から引きずり出し、どこでなど頭をまるめて尼にしてしまえ。そのうえは、追放じゃ。二度と内裏のあたりに近づけまいぞ」と、六波羅から武士二人を差遣わし、小督を御所から引っ立てて清閑寺(せいかんじ)(京都市東山区清閑寺山ノ内町)で強引に出家させてしまった。

この事が高倉天皇の心を深く苦しめ、病の床に伏せってしまい、「私が死んだら小督のいる清閑寺に葬ってくれ」と遺言を残して若干二十一歳で崩御された。

清閑寺は「歌の中山」と号する真言宗の智山派の寺で、清水寺の奥の院から子安塔を右に見て、一〇分ほど山道を東に登って行った所にある。

山門への石段の登り口の左側に高倉天皇の御陵と、その傍らに天皇の死後生涯にわたって菩提を弔ったといわれる小督の墓塔がある。

清閑寺の境内からは京都の町があたかも扇を開いたように眺望される。

その扇の要にあたる位置にある石を清閑寺では「要石」と呼んでいるが、小督もこの要石の上に立って楽しかった宮中の日々を懐かしんでいたと伝えられている。

京都嵐山の渡月橋の北詰を右側に曲がると、すぐに橋とはなかなか気づかないが「琴聴橋(ことききばし)」がある。

このあたりで小督の奏でる琴の調べに藤原仲国が馬を停めたことから「駒留橋(こまどめばし)」とも言われている。

さらに百メートルほど西に進んでいくと右側に小督が隠れ住んだという居蹟があり、女優の浪花千恵子さんが整備された五輪の供養塔「小督塚」が建っている。

小督塚(渡月橋北詰西入)

黒田武士の歌詞の二番「平家物語・卷六・小督」では「峰の松か松風か訪ぬる人の琴の音か駒ひきとめて聞くほどに爪音頻想夫恋(つまおとしるぎそうふれん)」と歌われているがこの話が元になっている。

尾道には小督にまつわる言い伝えが残されている。安芸の宮島(厳島神社)は古くから航海の神として信仰されていたが、平清盛が安芸守になってから平家一門の尊崇を集めていた。二十歳になった高倉上皇は平清盛に指示され、治承(じしょう)四年(1180)三月十九日、厳島神社に参拝することになった。

当時は平家の全盛期であった。高倉上皇はこの年の二月に数え年三歳の安徳天皇に位を譲り上皇になられたばかりであった。

この譲位も清盛の強制によるものであったことは言うまでもない。上皇の更衣(後宮女官の称)であったお満の方(小督)も上皇に従って厳島神社の参拝に同行していたが、お満の方(小督)は上皇が何かと自分の事に気を使われていて御迷惑をおかけていることが心苦しく、三月二十四日夕やみにまぎれ清盛の手の者から隙を見て姿を晦(くら)まし、古江(こえ)の浦(尾道市向東町古江浜)で下船して逃亡を企てた。

それからしばらく天神山の東側にある御満堂(おまんどう)・伏せ窪(ふせくぼ)の地に隠れ住んでいたが、清盛の追手の追及は予想以上に厳しく、お満の方(小督)はこれに耐えきれず自ら入水自殺をして果てた。その遺体が流れ着いたのが才(さい)越(ごし)の小高下(おこうげ)海岸(尾道市向東町才越小高下)であった。

現在ではここは海岸線より奥に入った所にあるが、当時はこの辺りまでが海岸であった。

流れ着いたというその場所には現在地蔵堂とその横に古い一石五輪の供養塔が建っている。この供養塔こそお満の方(小督)の霊を慰めるため、土地の人達が建てたものであると言われている。

小高下という地名もお満の方(小督)が京都から下向(げこう)してきた土地であるということに由来しているという。

小督の供養塔(尾道市向東町才越小越)

高倉上皇は三月二六日厳島神社を参拝後、三月二十九日厳島を出発され、その日は備後郡敷名(沼隈郡千年(ちとせ)村)の港(内海大橋下辺り)に泊まっている。

尾道から鞆の津に抜けるこの沼隈町(ぬまくまちょう)敷名には岸辺に見事な藤の花が咲き誇っていた。

供の者がその藤の花を松の枝を絡ませたまま折って来て高倉上皇に差しあげたことを大納言隆季卿(たかすえきょう)が詠んだという「千歳経む(ちとせへん)君が齢(よわい)に藤波の松の枝にもかかりにぬるかな」(千年を寿ぐ松の緑にかかっている藤の花はどんな事があっても君に付いてまいりますとの私の気持ですとばかり咲いている)という歌が残っている。

四、五日前にお満の方(小督)が姿を消した古江の浦を眺めていて、高倉上皇は状況が好転すればどんな事があっても必ず迎えに来るからどうかそれまでは身体に気を付けて待っていて欲しいとお満の方(小督)を偲んでいたのであろう。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

尾道の観光スポット

春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

歴史的な名所を訪れるのも良し、ゆっくりと街並みを歩きながら心穏やかな時間を過ごすのも良し、美味しい食事を心ゆくまで楽しむも良し。

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