絹本著色普賢延命像(持光寺)

尾道にある数多くの文化財の中で国宝に指定されているのは浄土寺(尾道市東久保町)の本堂と多宝塔、生口島にある向上寺三重塔と持光寺(尾道市東土堂町)の「絹本著色延命普賢菩薩画像」の四つである。

今回はこの内、持光寺の「絹本著色延命普賢菩薩画像」についての話である。

持光寺は、「承和年間(834~848)、伝教大師の高弟持光上人により、天台宗の寺として草創され、寺号は「日輪山天禅寺」と号し、本尊は聖観世音菩薩立像であった。

南北朝、足利義満の時代である永徳二年(1382)、善空頓了上人により浄土宗に改宗し、京都東山の永観堂の浄土宗西山禅林寺派の末寺となった。元禄十五年(1702)、徳川五代将軍綱吉の頃、当山第二十九世直空上人の願主によって、大仏師法橋安清の手になる五劫思(ごこうし)惟(い)の阿弥陀如来坐像を迎えて御本尊とし、寺号も「日輪山五劫(にちりんざんごこう)院持光寺(いんじこうじ)」と改め現在に至っている。」(持光寺由緒書による)

持光寺の正面入口の山門(延命門)は弘化三年(1846)の建立とされ、千光寺山から切り出された三十七枚の花崗岩を組み合わせたもので、尾道のわらべ歌にも「ええもん(門)は福善寺、かたいもん(門)は持光寺」と歌われ、石工(せっく)の町でもあった尾道を代表する名品の一つである。

元々は鼓楼か鐘楼であったものであろう。今でもこの延命門をくぐると長生きが出来ると伝えられている。

又、この世とあの世を繋ぐ門であると言う古老もおられ、ひょっとして夢の中で懐かしい人に出会えるかもしれない。

仁平年間、京都では皇統をめぐる渦中にあった。当時、絶対的な権力を持っていた白河法皇は鳥羽天皇と待(たい)賢門院(けんもんいん)(藤原璋子(しょうし))との第一子が五歳になると、むりやり鳥羽天皇を退位させ、その幼帝を即位させた。崇徳天皇である。

待賢門院は白河法皇の養女として育てられてきており鳥羽天皇にとって、この幼帝は白河法皇の子、叔父子(おじこ)であるとの疑いを拭えず、この皇子に愛情も親しみも持つ事が出来なかった。

白河法皇が崩御されると鳥羽上皇は待っていたように院政を執って朝廷の主導権を握り、中宮美(び)福門院(ふくもんいん)(藤原得子(とくし))との間に生まれた近衛天皇を三歳で即位させた。

白河法皇という後ろ盾を失った崇徳天皇は強引に退位させられた。

しっぺ返しである。まだ崇徳天皇は二十二歳の若さであった。ところが皇位についた近衛天皇は生来病弱であった。

十五歳の時、失明の危機から危篤状態に陥った。糖尿病ではないかと言われている。

鳥羽法皇と美福門院は急いで絹本着色延命普賢菩薩の仏画を作成し、全国の天台宗(密教系)の主だった寺院に下され、近衛天皇の健康回復と延命を祈祷するように命じた。これが現在持光寺に残っている国宝の延命像(昭和五十年六月指定)である。

この祈祷のお蔭か近衛天皇は最悪の状態を脱した。これで回復するかに見えたが、薬石の効なく二年後の久寿二年(1155)、わずか十七歳で崩御された。

近衛天皇に御子が無かったので、鳥羽法皇と美福門院は崇徳上皇の弟皇子・後白河天皇(鳥羽法皇と待賢門院の御子)を帝位につけ、皇太子は後白河天皇の皇子(後の二条天皇)とした。一方、崇徳上皇にしてみれば慣例に従って息子の重仁(しげひと)親王が天皇に就くことで、自分が法皇となって政治の主導権を握る事が出来るだろうとの目論見を断たれてしまったことに強い不満を抱(いだ)いた。

逆に美(び)福門院(ふくもんいん)(藤原得子(とくし))は近衛天皇を調伏したのは待賢門院や崇徳上皇ではないのかと疑いを持った。

皇統をめぐる確執(かくしつ)は想像以上の激しさであった。保元元年(1156)七月、鳥羽法皇が崩御されると、崇徳上皇と後白河天皇の対立は深まり摂関家の内紛もからんで、鳥羽法皇の死後僅か七日にして保元の乱が勃発した。

戦いは四時間程で終わり、崇徳上皇方は敗れた。そして崇徳上皇は罪人として讃岐に配流された。持光寺の延命普賢菩薩画像は横が八十六センチ、縦が百四十九センチもある大幅の仏画である。延命普賢菩薩像は普賢菩薩の信仰が密教的に展開したもので、長寿などを祈願する普賢延命法の本尊として信仰されてきたものである。

真言密教では二臂(注にひ)と二十臂のものがあるが、持光寺のものは二十臂像である。延命像は五仏宝冠を戴き、四頭の象が支える蓮華座の上に座している。

白象の頭上にはそれぞれ一体ずつ四天王(右から順に持国天・増長天・広目天・多聞天)を配している。

昭和五十年(1975)、京都でこの像の表装を修理に出したところ、画面の裏側の白象の足元の下辺りに「延命像仁(にん)平(へい)三年四月二十一日供養」(1153)との墨書が発見され、近衛天皇の延命を願って下された画像であることが判明し、国宝指定となった。

この墨書が表具の表でなく絵絹の裏に直接書かれていた為に、持光寺として、古いものではあると思いながらも、この延命像の作られた実際の時期が分からなかったのである。

修理に出したことによって表具の前の木枠張りの状態のまま、絵像に仏の魂を入れる開眼供養を行っていたことが明らかになった。

それほど近衛天皇の病状は予断を許さない緊急性のある危機に瀕していて、鳥羽法皇は兎に角延命画像の作成を急がせ、仏画として祈祷させることで近衛天皇の延命を図ろうと考えたのである。

この持光寺の延命像は法皇の厳命により短期間に護摩をたき、集中的に祈祷を行ったせいで画面が祈祷の際の炎の煙か、又は蝋燭のススによってややくすんでしまっているが、永徳二年(1382)、持光寺が天台宗から浄土宗に宗派替えしたことで、天台宗の仏具であった延命像自体は使用されることもなく長い間お蔵入りしていたことで、結果的に良い状態で保存されることになり、色彩などが損なわれることもなく画像そのものもくっきりと鮮明に残されることとなった。

鳥羽法皇が近衛天皇の延命を祈願し、護摩炊きを命じたこの持光寺の「絹本著色延命普賢菩薩画像」は現在のところ日本に現存する唯一無二のものであり、平安時代の仏画としても日本史の歴史的に見ても非常に価値がある。是非実物を是非御覧になっていただきたい。

ちなみに二臂の画像は京都府の舞鶴市にある松尾寺のものがやはり国宝に指定されている。

この松尾寺に鳥羽法皇は美福門院を伴って参詣しており、持光寺の絹本著色延命普賢菩薩画像の参考になっていたのかも知れない。

持光寺(尾道市西土堂町)

時代は保元の乱のあとに勃発した平冶の乱によって平家が台頭してきて愚管抄を著わした天台座主慈円の言うように「武士の時代」が来ることになる。

この世の移り変わりが、母の美福門院が本当に思い描いた世となったのかどうか分からないが、京都から尾道にも届けられたこの母の強い願いが世を変えていった原動力となったことは間違いないだろう。

長寛元年(1163)、鳥羽法皇が葬られた安楽(あんらく)寿院(じゅいん)(京都市伏見区竹田)に、美福門院のために建立された新御塔に母美福門院は近衛天皇を改葬している。

注・二臂 二本の腕   二十臂 二十本の腕
ところで、尾道市東土堂町の信行寺には「安楽川経」と呼ばれるお経(大般若経)の一巻が秘蔵されている。

この経巻は保元元年(1156)に美福門院が近衛天皇の菩提を弔い、併せて後白河天皇側の形勢が優位に立つことを祈って、この経巻に荘園を添えて高野山へ寄進されたものである。その一巻がどのような経路を経てか尾道に残されている。

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