銀山街道

江戸時代、石見銀山(島根県大田市大森町)で発掘された銀は中国山脈を越えて瀬戸内の尾道へと運ばれていた。

この銀を運んだ道を「銀山街道」と呼んでいる。銀を産出した石見銀山は大正十二年(1923)に閉山となったが、平成十九年(2007)七月に「石見銀山遺跡とその文化的景観」としてユネスコ世界遺産に登録された。

銀生産の遺構だけでなく、当時環境なども配慮して自然と共生した鉱山運営を行っていたことが評価されたものである。

石見銀山は大永六年(1526)、博多の商人神屋寿貞(かみやじゅてい)が日本海を出雲に向けて航行中、銀峯山(仙の山)が銀色に光っているのを見つけ、採掘調査したところ銀の鉱脈を発見したものと言われている。

この銀峯山(仙の山)は約百五十万年前の火山の噴火で形作られたもので、石見銀山の鉱床もこの火山の噴火のマグマによってもたらされたものである。

天文二年(1533)、寿貞は銀鉱の精錬技術「灰吹法」を取り入れ、銀の現地生産を軌道に乗せ良質な銀を大量に生産するに至った。生産拡大と共に十七世紀前半の全盛期には仙ノ山を中心に二十万人もの人が暮らしていたという。石見銀山などで産出された日本の銀は当時世界で産出された銀の約三分の一を占めており世界にジパング(日本)の名を轟かせた。

精錬された銀や銀鉱石は当初、銀山から約七キロ西に行った日本海沿いの鞆浦(ともがうら)(大田市仁摩町)の港まで運び出され、ここから九州博多へ積出されていた。今も港には寄港した船の係留に使われていたという岩をくりぬいた「鼻ぐり岩」(岩礁ピット)が見られる。

戦国時代には大内氏、尼子氏、毛利氏との間で銀山の利権を巡って争奪戦が繰り返された。

永禄五年(1562)、毛利元就の統治下になると龍源寺間歩(まぶ)の前の道を西へ十二キロ行った降露坂(ごうろざか)の峠を越えて、西田地区、清水地区、さらに松山地区を通り、リアス式の海岸で海が深く比較的波の静かな沖泊(おきどまり)(大田市温泉津町)に運ばれてここから元就の居城のある吉田郡山へ向けて海上輸送されていた。

この沖泊の手前にある街道沿いの「温泉津」には江戸時代から変わらないと言われる町割りの中に、現在も二十軒ほどの古い町並みが肩を寄せ合うように佇んでいる。

国道九号線がこの街道とは別ルートで建設されたため山に囲まれた町並みがタイムカプセルのように当時の風情を色濃く残すこととなった。

銀鉱石を採掘する当時の鉱夫達の厳しい仕事の疲れを癒したであろう街道沿いにある「元湯」と「薬師湯」の二つの共同浴場は、ナトリウム・カルシウム塩化物泉の源泉掛流しの薬効豊かなお湯で、今も日帰りの湯として人々の憩いの場所となっている。

温泉地としてこの「温泉津」は日本で唯一の伝統的重要建造物群保存地区にも選定されている。

慶長六年(1601)徳川家康は大久保長安を初代奉行として石見銀山に送り込み石見銀山を天領として幕府の支配を強化した。

当初、毎年十月中旬から十一月下旬の農家の農閑期に前年の十月から当年九月までの間に採掘した銀を年一回、まとめて海上輸送で大阪に送られていたが、この時期の日本海は北西の風が強いことと時化(しけ)る日も多く安定的に輸送が出来ないだけでなく波の荒い中での船の運航は危険が伴っていた。

そこで大久保長安は、積雪はあるものの海路より安全な陸上運送に切り替えるべく、中国山脈を越えて瀬戸内の尾道迄の道路や宿の普請を行ない、道幅が七尺(二・一メートル)、総延長三十五里(約百三十キロメートル)の三泊四日の銀の輸送路を完成させた。銀山街道である。

銀の輸送は、幕府の御用として街道沿った宿場の役目と責任において行われていた。毎年、宿場周辺の村々から駅毎に馬や人足が借り出され、馬を持っていない者は自己負担で馬を調達させられた他、滞在費も自己負担となっていた。

輸送路はかなり険しい場所があったので場合によっては馬ではなく牛も使われたのではないかとも云われている。結果、人は四〇〇人、牛馬三〇〇頭を要したと記されている記録が残っている。

運上銀は十貫目(約三十七・五キロ)ごとに箱に詰められ、馬一匹に箱二つを乗せ、葵の紋の入った小旗をつけ、隊列を組んで運ばれた。

従って馬五〇頭で千貫となり 、牛馬三〇〇頭ということは六千貫ということになるが(注・当時馬が小さかったので背中に十貫、一つを積んでいたとも云われている)その年の運搬量も様々であり、員数についてははっきりとはわからない。

銀山街道は銀の貯蔵場所であった大森代官所を出発し、町並みを抜けて美郷(みさと)のやなしお道の峠を越えて行く。この峠が銀山街道の最初の難所であった。ここを抜け急な坂道を南下すると小原宿となる。

ここで輸送隊は馬替えと昼食をとった。銀輸送の当日はこの小原宿に大森からの一行とこれを引き継ぐ一行、併せて千人近い人々と多くの牛馬が集まったと言われている。

酒谷口番所跡 石碑

小原宿からは江の川沿いを進み、牛馬の荷物を半分にしないと通れないほど道幅が狭い場所という名のついた半駄が峡(はんだがかい)の断崖を通り抜けると、江の川から別れ、赤名方面の谷に入る。

現在の国道375号線から県道166号線に入っていくルートである。

街道沿いには街道の崩落や人馬や荷駄の転落防止の為に根を張りやすいヤブツバキやカシの樹木が植えられた。

早朝に大森を出た輸送隊は、夕暮れに九日市(ここのかいち)の宿場に到着する。
ここが三泊四日の最初の宿場である。

本陣を原田屋、脇本陣を鍜冶屋に取り、運上銀は本陣裏の御銀蔵(おかねぐら)に納められて地元の百姓が一晩中寝ずの番をして警備した。

九日市(ここのかいち)の宿場

早朝に九日市を出発して赤名の宿に向う。急な境木地区を登り切ると石見国と出雲国の国境となる。その手前に酒谷口番所があった。こ

こは天領であった石見銀山領への出入口でもあったので、銀や銅の流出防止や銀製法の秘密漏洩防止などの為に番所には幕府の役人が常駐していた。しばらく平坦な道を進み午前八時頃赤名宿で馬替えが行われた。

赤名は山陽と山陰、出雲と安芸、備後の国境を分ける要衝であることから、ここを舞台に中世には長門の大内氏、安芸の毛利氏、山陰の尼子氏が覇を競い合って合戦が繰り広げられた。

その後、輸送隊は瀬戸の一里塚を過ぎ、赤名峠に入っていく。赤名峠は標高六百三十メートルで銀山街道中の最高地点にあり、ここの急な上り下りも道中の難所の一つであった。

峠には高さ一・七㍍の石柱の三面に「従是南藝州領」「従是南備後国」「三次郡横谷村」と刻まれた国境碑が今も残っている。この峠の直下に昭和三十九年(1964)、山陰と山陽を結ぶ国道五十四号線の「赤名トンネル」が開通した。

このトンネル内の中央付近に広島県と島根県の県境の標識がある。

そして平成二十七年三月には尾道市と松江市を高速で結ぶ「やまなみ街道」が開通したことで、この峠のトンネルを通過する車は大幅に減少し、近くにあった大型のドライブインも閉店を余儀なくされ、建物は解体されて更地となっている。新旧の街道の時代の流れを直(じか)に感じる事の出来る場所となっている。

きつい峠を越えて備後国に入り万右衛門坂を下っていくと国境番所があった。この番所には地元の農民二名が家族と共に住み込んで番に当たっていた。出雲街道最北の室の宿を過ぎ仏ケ峠の山を越え布野川沿いに進んで布野宿に入る。

布野宿は瀬戸内と山陰を結ぶ広島藩最北の宿で陰陽の交易の中継地として早くから栄え、町が形成されていた。布野宿を通過して天細女命(あまのうずめのみこと)が布野で休息したことに由来する知波夜比売神社を左に見て神野瀬の渡しを渡り、山家の一里塚からのゆるやかな坂を下がっていくと西城川に突き当たる。

ここから三次の町までは宮の峡と呼ばれる西城川に沿った崖の上を進む道になっている。午後十時頃到着した輸送隊はこの三次で二日目の宿をとった。

三次藩は広島藩の分家として水運にも恵まれ、交通の要衝であった。一行の宿泊先は御客屋(おきゃくや)(御茶屋でなく)と呼ばれて大きな商家を営んでいた堺屋で、堺屋は町の中心である五日市町のほぼ中央(旧広島銀行跡地)にあった。堺屋は幕府の御用だけでなく藩の公用の休憩・宿泊所も勤めていた。

三次藩の初代藩主浅野長治の娘阿久里(あくり)姫が赤穂藩浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)(浅野長矩(あさのながのり))に嫁いでおり、長治が創建した三次浅野家の菩提寺である鳳源寺(ほうげんじ)には阿久里姫の遺髪塔と大石内蔵助のお手植えと言われる桜の古木があり今も季節に名残りの花を咲かせている。

三日目、三次を出発して岩神の渡しを舟で対岸の十日市に渡り、南畑敷にあった安国寺市を過ぎると三良坂の町に入る。

三良坂の町を抜け藤坂を登って粘が峠を越えたところに塩野一里塚があった。一の渡の近くの榎(えのき)を目印にして馬洗川を渡り一日(ひで)市(いち)に入る。榎の大木の根元は落雷の際の避難場所でもあったという。

一日市は中世の頃吉舎を支配した和智氏の居城南天山城の城下町として栄えていた頃の町割りの一つである。馬洗川に沿って進むと吉舎の中心部の入口にある下素麵屋(しもそうめんや)の一里塚があって、七日町と呼ばれる町の中の庄屋清十郎宅(泉屋)で昼食取った。

現在吉舎歴史民俗資料館には当時吉舎宿が宰領達に振舞ったという豪華な食事(食品サンプル)が展示されている。御酒迄ついたこの豪華なメニューはこの吉舎宿だけのものでなくどこの宿駅でもこのような接待が行われていたという。

食後一行は東に進み、宇賀峠を越えて甲奴に入った。頂上手前の中山一里塚を登り切った宇賀の辻堂の先で尾道に向かって南下するルートと、上下から府中を抜け笠岡に向って行くルートに分かれているとされているが、銀の輸送路としての笠岡ルートの信憑性は疑問視されている。

ただ笠岡に抜ける上下の町は当時幕府の天領として代官所が置かれていた。現在上下の町の中心部は電柱の地中化が終わって、うだつや虫小窓等(など)当時の古い街道の町並みの風情を色濃く残している。

尾道ルートは広石を過ぎ、小童の頼藤に出て柴峠を越えると世羅の村に入る。そして新山の東を回って三日目の宿泊地である甲山の町へと下っていく。甲山での御茶屋は庄屋市朗右衛門宅(加儀屋)であった。

御銀蔵(おかねぐら)は御茶屋から少し離れた現在の今高野山龍華寺総門を入った右側にあって、そこで厳重に保管された。

甲山を出発して宇津戸からは御調町大原、宇根を通って南下し、公文を通り高尾に入り、リョウビミツギの社屋の東横を抜けると御調高校前に出る。御調川を渡って市へと南下する。

市で馬の交換と昼休憩を取り、畑、木ノ庄、三成を過ぎて向山の峠を越えると長江の町に入る。

そして尾道の十四日町(とよひまち)にあった本陣の笠岡屋(現在の長江のバスプールの南にあった)が銀山街道の終点で、「運上銀」を引き渡せば輸送隊の三泊四日の任務は終了となった。(三次市地域振興部観光交流課資料他参照)

笠岡屋(小川屋)石垣跡

運上銀の警備は厳重を極め、運上銀が尾道に入る前日には銀が運ばれて来る通りを清掃し、町内を夜だけでなく昼間も火廻りが二人で火の用心を促す事になっており、夕方からは自身番は二人体制をとった。

十四時から十五時頃、本陣笠岡屋に着いた運上銀は笠岡屋の裏門から運び入れられた。その際、町年寄泉屋善右衛門、鰯屋九次郎が立会って銀高と銀箱の印符を改めたのち蔵に入れた。

年寄組頭の次郎右衛門が蔵の錠舞を閉め扉に封印し、鍵は泉屋善右衛門が預かった。その後宰領衆(運上銀運搬の責任者)には笠岡屋で宴席が設けられ、広島藩より来ている銀送りの奉行も同席した。

室津(兵庫県)への船頭にも別室ではあるが相伴に預かった。宴席は夜の十時頃まで続いたという。

御銀蔵の西と東には不寝番で六人を配置し、笠岡屋も家の者三人に警備を担当させた。

月行司の夜廻りは二人組で提灯を持って午後八時から二時間おきに見廻りを行った。蔵から東は城戸屋、西は荒神堂小路の角迄の家々には行燈(あんどん)を出させた。年寄組頭次郎右衛門も深夜二時に夜回りをした。特に蔵の付近は念入りに巡回している。

又、御下代(下級武士)にも巡回が命じられた。自身番は一箇所に四人に増員して警備を強化した。

天明七年(1787)青木氏収蔵文書、及び文化二年(1805)の橋本家文書には運上銀を運び入れた蔵の中に猫一匹を入れ、蔵を封印しているとの記述(広島県立文庫館蔵)も残っている。

ネズミが銀をかじらないよう猫に張り番させたということか、それほど銀の保管・管理には厳重を極めた。

「銀座」発祥の地

翌日午前六時から七時頃、住吉浜(現在の住吉神社)で船奉行は蔵から出した銀高を確認後、受領した旨の証文を発行し、それまで町奉行が持っていた預り証と引き替える。

その後、運上銀は船に積込まれ、午前八時から十時頃天領の室津に向け出帆している。

文書ではこの船が「安芸守様の御船」とあることから広島浅野藩から使わされていたことが分かっている。

運上銀の多かった江戸初期から中期には百石積みの十端帆と十一端帆の二艘が用意され、一艘に約十石から十五石(千五百キログラムから二千キログラム)、二艘で約二十石から三十石(三千キログラムから四千キログラム)の運上銀が積込まれたという年もあったという。

寛永元年(1624)頃から大森銀山での銀の産出量が減少していくが、銀山街道での輸送は徳川家が大政奉還する直前の慶応二年(1866)迄続いた。

元禄五年(1692)の尾道の豪商泉屋善右衛門文書には銀奉行であった後藤覚右衛門の手代稲塚平兵衛から銀山御用宿として指定を受けていた尾道の石見屋七郎兵衛(尾道常称寺の檀家)に宛てた手紙が残されている。

「後藤様の指示で私稲塚が大森の役所へ前もって行くことになったので、尾道から大森までの宿及び休憩所、必要な人馬(馬は五頭、人は六人)を滞りなく手配しておくよう村々の庄屋に申し伝えておくよう」その稲塚平兵衛一行八名(稲塚の御内儀含む)が尾道に着いた時、石見屋九兵衛は羽織袴で港に出迎えに行き、その日の宿泊先である石見屋へ案内した。

一行が石見屋に到着すると尾道の町年寄泉屋善右衛門、庄屋の又右衛門の二人が羽織袴で正装をしてまかりこした。

すると稲塚から「先日馬は五匹用意しておくように頼んでいたが、荷物が増えたので六匹にしてもらいたいとの指示があった」というものである。手代にさえこの有様であった。

石見の銀は幕府にとって重要な財源であったため、幕府直属の銀山の役人に対しては腫れ物に触るような下にも置かない扱いであったことがわかる。

尾道から大森迄の運上銀渡しの役人の復路の行程は二泊三日で往路より一日早くなっている。尾道を出発後甲山で休憩をして吉舎で宿を取っている。

次の日は赤名に泊まり小原で休憩をして大森に到着したようである。大役を終えてやれやれと足取りは軽く、気持ちは晴れ晴れとしていたことだろう。

当時、尾道港は広島藩の外港として大阪蔵屋敷への年貢米等の積出港となっており、「芸州藩の台所」として多くの豪商達の経済活動が活発であった。笠岡屋(小川屋)は桃山・江戸時代にかけて大西屋(渋谷家)と泉屋(葛西家)に並んで尾道三大豪商の一つであった。

本邸が「本陣」に当てられており、大名、公家、幕府役人の宿泊所となっていた。屋敷は南北四十八間、表六間、裏八間の坪数三百六十八坪の、本通りから米場町までの奥行の長い大豪邸で、狩野永徳の襖絵もあったと言う。

玄関にはかって千光寺山城にあって尾道を支配していた杉原氏の木戸門を移築していた。

明治三十九年(1906)、十七代目が亡くなられて以降、家は絶えてしまっているが、現在、笠岡屋の屋敷跡地脇は小川小路(しょうじ)と名付けられている。その小川小路には「本陣跡」の表示が建っており、屋敷蔵の石垣の一部も残っている。

又、市内には運上銀受渡しの役人が泊まっていたという出雲屋敷の一部も残されている。

尾道から船で室津に運ばれた運上銀は大阪を経て五日をかけて京都に運ばれた。関が原の戦いが終った翌慶長六年(1601)五月、伏見城に入城した徳川家康は、後藤庄右衛門・末吉勘兵衛を銀座取立に命じ、伏見の大手筋と両替町通りの一角に銀座屋敷、政所を設置し、有力商人の座人が集められ、銀座会所、座人屋敷が建ち並んだ。

そして家康はここに大阪堺の銀商湯浅作兵衛常是(ゆあささくべえじょうぜ)(後に大黒との姓を家康に与えられた)を呼んで慶弔豆板銀、慶長丁銀の鋳造を開始し、全国統一貨幣として流通させた。

慶長十三年(1608)伏見銀座はこのあと京都市中京区の両替町に移されるが、現在伏見を東西に走る大手筋界隈には当時を偲ぶ「銀座町」「両替町」の町名を今にとどめている。

京阪本線伏見桃山駅から大手筋を真っ直ぐ西に歩いていくとすぐに「此付近伏見銀座跡」と刻まれた石碑が右側に建っている。

この地こそ日本で最初の「銀座」という名前の発祥の地なのであるが、大森銀山で掘り出された銀鉱石が運上銀として多くの人の手を介してここまで運ばれてきて貨幣になっていたのかと思うと、「よくぞここまでご苦労さまでした。お疲れさまでした」と本当に頭が下がる思いがする。

平成三十年と三十一年に「銀山街道」(銀の輸送路)を日本遺産にしようと銀山街道に関わる沿線自治体が共同で文化庁に申請したが、提案したストーリーのインパクト不足や自治体の足並みの乱れ等もあって結局不採用となった。銀

山街道の総てを踏破したわけではないが、銀山街道が手入れされてきちっと残されている場所がある一方、既に家が建ったり畑や道路になっていたり、雑草に覆い被されてしまって分からなくなっている場所もある。

銀山街道の保存整備については民間のボランティア活動の努力だけでは限界があり、地元で語り伝える人達も居なくなっていくことも心配される。

官の力も借りながら貴重な日本の歴史的遺産でもある銀の輸送路・銀山街道を何とか後世に遺産として保存し伝えていきたいものである。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

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春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

歴史的な名所を訪れるのも良し、ゆっくりと街並みを歩きながら心穏やかな時間を過ごすのも良し、美味しい食事を心ゆくまで楽しむも良し。

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