和気清麻呂は奈良時代の天平五年(７３３)、地方豪族である和気氏の長男として備前国藤野郡(岡山県和気郡和気町藤野)に生まれた。父親は郡の長官であった。

三歳上の姉の広虫は当時の規則として郡司は息子や娘を朝廷で奉仕する為に貢進（献上）する義務があったので、十一歳の時采女として宮中へ出仕し、皇后宮職で皇后直結の仕事を担当することになった。

広虫が奈良の都に出てきた時は聖武天皇の時代で皇后は光明皇后であった。

広虫は皇后から次の天皇になることが定められていた娘の阿部内親王に仕えるようにとの沙汰を受けた。

広虫は内親王に特に可愛がられ、内親王が身罷るまでの三十年仕える事になった。

心根の優しい光明皇后は社会事業に熱心で、皇后職に悲田院や施薬院を置いて薬草を集めて栽培し病人や孤児の保護、治療、施薬を行っていた。

広虫は光明皇后に大いに影響を受けた。

広虫は出仕二年後に中宮職に勤める葛木連戸主(かつらぎのむらじへぬし)に見初められて結婚した。

疫病や社会不安から国を鎮護するための大仏造立との国家の一大事業の詔を出した聖武天皇が退位された天平勝宝元年(７４９)、阿部内親王は孝謙天皇（女帝）として皇位に就いた。

この為、皇后宮職が拡大改組され紫微中台(しびちゅうたい)という機関が置かれることとなり、その長官・紫微令(しびれい)に光明皇后の甥である藤原仲麻呂が任命され、紫微少忠(しびしょうちゅう)には広虫の夫である葛木連戸主が任命された。

広虫は後宮(天皇の私生活の場)に入り女嬬(にょじゅ)(内侍司(ないしのつかさ)に属し雑務に従事した下級女官)として仕えることになった。

この事が実家の在る備前国藤野郡では采女(うねめ)も兵衛(とねり)も出していない無貢進(むこうしん)(献上の無い)の郡ということで、弟の清麻呂も兵衛として朝廷に出仕せざるを得なくなった。

時に清麻呂十八歳であった。

宮廷の護衛兵である兵衛として務め始めた清麻呂は姉の広虫と孝謙天皇の関係もあって次第に中央官吏の世界で地位を高めていった。

孝謙天皇は多忙で後見の光明皇太后のお世話をする余裕がなかったことから天平宝字二年（７５８）、「日本書紀」を編纂した舎人親王の子大炊王(おおいおう)に譲位された。

第四十七代淳仁天皇である。
大炊王は藤原仲麻呂の入り婿であった。

藤原仲麻呂は光明皇太后と孝謙天皇の信任を背景に絶大な権力を得て、大保(たいほ)（右大臣）に就任し、恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜り、天平宝字四年（７６０）には大師(たいし)（太政大臣）に迄上り詰めた。

又、自分の息子たちを参議などの要職に就けた。

淳仁天皇はもっぱら恵美押勝の傀儡(かいらい)ともいえるものであった。

天平宝字五年(７６１)、孝謙上皇は保良宮(ほらのみや)(滋賀県大津市国分)に行幸され政務をとっていたが、東大寺大仏開眼供養後の天平勝宝八年（７５６）聖武天皇が、天平宝字四年（７６０）には光明皇太后が相次いで崩御され、さすがに心身共に疲れが重なったこともあってすっかり体力・気力を消耗させて臥せっていた。

その時、葛木連戸主が紹介してきた看病禅師(かんびょうぜんじ)が道鏡であった。

頼りとする光明皇太后を亡くして心細かった孝謙上皇にとって宿曜秘法という術で病を治し、聖武上皇に倣って仏教を中心とした政治を目標としていた孝謙上皇に知識を与えてくれる禅師は正に救いの神であった。

しかも、四十四歳まで独り身を通してきた女性が男の魔力に魅せられたとしても不思議ではなかった。

淳仁天皇は二人の仲がスキャンダルに発展することを恐れ、たびたび諫言した。

恵美押勝にとっても光明皇太后没後は次第に孝謙上皇が自分にではなく道鏡禅師の方を信頼するようになっていたので面白くなかった。

なんとか道鏡を排斥せんとして孝謙上皇に道鏡をあしざまに謗(そし)り、淳仁天皇にも二人の振る舞いは世の中を混乱させるものであると訴えさせた。

孝謙上皇は既に政治の第一線から退いていたが自分をこのように悪し様に言う淳仁天皇等の言動はさすがに不忠であると我慢がならず許せなかった。

孝謙上皇は自分が重祚して称徳天皇となり、道鏡との二元政治が始まった。

淳仁天皇は称徳天皇により天平宝字八年(７６４)、淡路島に配流(はいる)（淡路廃帝）され、ほどなく崩じた。

道鏡を退けようと裏で画策していた恵美押勝はこの権力抗争に敗れて近江に逃げたが見つけ出され斬殺された。

心根の優しい広虫は称徳天皇に恵美押勝に加勢して死罪と刑の決まった者のうち数百人を流刑に刑を減じる処置を願い出ている。

この間に広虫は夫が亡くなり、若くして（三十三歳）未亡人となっており、孝謙上皇が出家した際に共に出家して法(ほう)均(きん)尼(に)と名乗っていた。

光明皇后に倣って法均尼は平城京の屋敷に孤児を収容して養育していたが、その数が八十三人にも及んだので本格的な孤児院として孤児の保護に努めていた。

又、成人となった男九人、女一人を養子として引き取って葛木の姓を名乗らせたりしていた。

道鏡は称徳天皇の後ろ楯もあり太政大臣禅師として政界にも顔を出して宮廷内で権力を握るようになっていた。

称徳天皇はなお道鏡及び道鏡一族をとりたて天平神護二年（７６６）には、道鏡に前例のない法皇の位を授けた。

道鏡は権勢を欲しい儘にして臣下の域を超えて天皇が行う同じ儀式を自ら執り行うなど、我が物顔で更に大きな権力を行使するようになった。

道鏡が権力を独り占めするようになると、まわりの人間の中には彼に取り入られようとする者も出て来た。

中でも宇佐八幡宮の中臣習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)は宇佐八幡大神の御神託と偽って「道鏡をして皇位に就かせましたならば天下は太平となるであろう」と称徳天皇に奏聞した。

称徳天皇は御神託と聞いてさすがに困惑した。

当時は国家的な危機の際に登場してくる宇佐八幡大神は当時一品(いっぽん)に位置づけられ、天皇の先祖を祭る伊勢神宮よりも権威があった。

このことは宮廷中を揺り動かす大事件となった。

宮廷ではこの神託に反対する側と道鏡擁護派とに分かれて激しく対立した。

元来、宇佐八幡を尊崇していた称徳天皇であったが、さすがに道鏡に皇位を継承させれば天皇家が政をなすことを捨て去ることを意味することであり恐れもあり慎重であった。

「今一度、宇佐八幡大神の神意を伺いしのち沙汰せむ」として宇佐八幡宮への使者を法均尼に指名したが、法均尼は荷が重すぎるとして自分の代理として近衛将監の官にあった清麻呂を推した。

称徳天皇はこれを了承した。

宇佐八幡宮への使いとなった清麻呂に道鏡はこの件が終わったら太政大臣に推挙するからなどと唆(そそのか)されたりしたが、清麻呂はこれを頑として応じなかった。

大任を帯びた清麻呂は難波の港を出発して約一ヵ月後、宇佐(大分県宇佐)に着いた。

宇佐到着後の翌日からは一切の来客を絶って沐浴・潔斎をして、当日の早朝神前に臨み一心に御神託拝受を祈念した。

御神託を乞うていた正にその時突然神殿が鳴り動き「我が国は開闢(かいびゃく)以来君臣(くんしん)の分定まれり、臣をもって君となすことはいまだこれあらざるなり。天津日嗣(あまつひつぎ)(皇位を継承するの意)は必ず皇緒(こうちょ)を立てよ。無道の者は速やかに掃い除(はらいのぞ)くべし。」とのお告げがあった。

現在、国道十号線横の駐車場から神橋を渡り、二つ目の大鳥居をくぐり、向かって左側の参道(大尾山参道)を突き当たった大尾(おおお)神社にこの神勅拝受の聖蹟として八幡大神の御分霊を祀っている。

当時、この山上の本殿に八幡大神が鎮座しており、神護景雲三年（７６９）七月十一日、清麻呂はここで御神託を受けたのであった。

都に帰った清麻呂は大極殿で帝をはじめ大臣、参議等大勢の役人が居並ぶ前で御神託を堂々とはばかることなく奏上した。

「王位継承の法則は古来より定まっている。臣をもって君となすこと、いまだかってなし。無道のものはよろしく早く掃(は)き除くべきである」と万世一系の皇統が我が国体の礎(いしずえ)であることを明らかにし、道鏡が皇位につくことの間違いを言上した。

当然このことは道鏡の逆鱗に触れ、御神託は清麻呂と法均尼が作り上げた全くの偽(いつわ)りで、八幡大神の謀(はかりごと)ではないとして二人を流刑に処した。

流刑を前に二人の官位は剥奪され、二人の姓名を「別部(わけべの)」という底辺の姓を以って使い、清麻呂は別部穢(わけべのきたな)麻呂(まろ)、還俗させられた広虫は別部広虫売(わけべのひろむしめ)と変えられた。

法均尼にとって広虫売という名で遠国に流すほどの処置を下した称徳天皇も情けなかったが、称徳天皇にとっても「無道の者は掃い除くべし」という御神託には道鏡との二元政治を明らかに否定されたとして二人の追放を追認した。

一方、称徳天皇はこの騒動での宮廷での内乱を避けるため、清麻呂側で御神託について謀(はかりごと)をしたと見做された者達に今までの事は水に流して、これからは一緒にやっていこうとの和解の意志を示した「恕」と書かれた紫色の帯を下賜して国家の結束を図った。

称徳天皇はその後も道鏡への寵愛は変わらずに続き、道鏡の生まれ故郷河内国弓削郷（大阪府八尾市）に「由義宮(ゆげのみや)」という宮殿まで建てた。

しかし、さすがに御神託を無視することは出来ず、皇位継承については聖武帝の血筋をうけた白壁王(光仁天皇)を皇太子に就けた。皇位は清麻呂によって守られたのである。

この事を頼山陽も「日本楽府」の中で「三寸の舌。万古の日。」（清麻呂は三寸の舌をもって万世一系の日輪にもたとえられる皇位を護った）と著わしている。

清麻呂の流刑地となったのは大隅国桑原郡稲積里(鹿児島県霧島市牧園町妙見)で、法均尼は備後国御調郡八幡村(広島県三原市八幡町)であった。

時に神護景雲三年(７６９)九月十五日の事である。

この二人の流刑にあたっては参議の藤原(ふじわら)百川(ももかわ)が二人の心情を憐れみ、備後国の自らの封戸(貴族に対する俸禄制度)二十戸分の収入を清麻呂の配所にあてている。

又、法均尼の流刑地先であった備後の百川の封戸地に法均尼を居住させている。

さらに右大臣であった備前出身の吉備真備(きびのまきび)からも密かに援助の手が差し伸べられた。

只、道鏡の怒りは二人の流刑程度ではおさまらず、流刑地に向う清麻呂と警護の一行を河内の国境にある仙郷生駒山麓で襲撃させた。

幸いな事にその時激しい雷雨が発生した事でからくも清麻呂は難を免れることが出来た。

流刑地にあっても清麻呂は土地の悪習を正したり、地元の長年の課題であった水利治水事業を整備したりして地元の人々に感謝され、その真面目な人柄は尊敬された。

現在もこの地には清麻呂を御祭神とした和気神社がお祀りされている。

その神社は鹿児島空港から霧島温泉郷に向かっていく国道二百二十三号沿いの坂本竜馬とお龍さんの新婚旅行の記念碑の右山側に鎮座している。

一方、広虫も持ち前の明るさとやさしい人柄は流刑地にあっても誰からも好かれた。

広虫がこの流刑地の備後国で過ごしていたある時、都から荷物が送られてきた。

広虫が蓋を開けて見ると広虫が孤児院で育てた成人した子達が送ってくれた干し柿であった。
広虫は嬉しくて涙が溢れて止まらなかった。

そしてまたこのような配流の身の上にある自身の無念さを思わずにはいられなかった。

又、広虫は持っていた円鏡に宇佐八幡宮の大神を勧請し、遠く離れ離れになった弟の無事を祈った。

これが現在の御調八幡宮(みつきはちまんぐう)(広島県三原市)の創祀といわれている。
この御調八幡宮は、一時期京都の岩清水八幡宮に属し八幡荘としてその社となっていた。

近年、この境内に和気清麻呂と広虫を祭神とする和気神社が勧請されている。

現在、尾道市の八幡町本庄の畑の真中には当時の御調八幡宮の境内を示す一の鳥居が立っている。

宝亀元年(７７０)、称徳帝が崩御されると光仁天皇が即位され、さすがに道鏡は下野(しもつけ)国(のくに)（栃木県）の薬師寺の別当に任じられ、そこで三年後空しく世を去った。

愛媛県越智群上島町に属し芸予諸島（上島諸島）の一つである弓削島は鎌倉時代には京都の東寺の塩の荘園と呼ばれていた。

村上海賊（能島村上家）が史実に初めて登場するのが、１３４９年のこの東寺領弓削荘の海上警備の記録である。

この弓削島には法王ケ浜と呼ばれる海岸線（海水浴場）があることから、初めは後白河法皇の皇室の所領であった長講堂領ではないかと思っていたが、この名が付いたのは道鏡の随身がここに流れ着いたことによるもので、燧灘(ひうちなだ)に面した法皇ケ浜の松林の中に鳥居を海に向かって建てている道鏡を祀った弓削神社が鎮座している。

清麻呂と広虫は二年余りで赦免となり、天皇は皇統を正した者として清麻呂を重く用いられ従五位下に戻し、播磨(はりま)員外(いんがいの)介(すけ)に任ぜられた。

広虫も元の後宮に戻り、名誉ある典蔵(てんぞう)(後宮の経費を管理する蔵司の次官)に就いた。

又、後宮に勤めるかたわら、屋敷に設けた孤児院の経営にも力を傾けたほか、悲田院や施薬院の仕事にも熱心に取り組んだ。

もともと情が厚く人の為になる仕事が好きな広虫にはうってつけの仕事であった。

六十七歳の時、典侍(ないしのすけ)(後宮から諸役所・諸寺社へ出す重要文書の起案や授受、その上位が尚侍(ないしのかみ)で後宮の女官の最高権威)の仕事に就き、宮中では誰からも信頼される地位にまで昇りつめ、延暦十八年(７９９)一月、七十歳で亡くなった。

没後には正三位を追贈されている。

一方、清麻呂は桓武天皇の代になると一躍抜擢(ばってき)されて難波を治める摂津大夫(せっつだいぶ)となった。

そして政治の一新を図るにあたり藤原百川等と供に遷都を奏上し、山背国(やましろくに)葛野郡宇太村(かどのぐんうたむら)の盆地を絶好の遷都の地と定めて勅許を得た。

平安京である。

晩年は民郷((みんぶのきょう)、平安京の造営大夫(ぞうえいだいぶ)となり活躍をし、延暦十八年(７９９)二月、肝臓を患って六十七歳で亡くなった。

京都の御王神社には清麻呂の書き残したという「我獨慙天地」（我一人天地にはず）「自分は天地の澄み切った心に照らして恥じる事のないよう、又、自粛自戒を心がけ謙虚に正しい道を進もう」との書があるが、人皆自らこの戒めを心がけたいものである。

護王(ごおう)神社(京都市上京区烏丸通長者町下る)

○祭神　　和気清麻呂(護王大明神)・和気広虫(子育明神)

○護王神社は始め和気氏の氏寺である高雄の神護寺の境内にあり護法善神と称していた。

○嘉永四年(１８５１)三月十五日、孝明天皇は清麻呂の忠義を深く賞され正一位護王大明神の神階神号を授けられた。

○明治七年(１８７４)十二月二十二日、護王神社が別格官幣社に列せられ特に明治天皇の勅命をもって京都御所蛤御門前に社殿を造営した。

○大正四年(１９１５)十一月十日、和気広虫を正式に祭神とした。

○護王神社の拝殿には狛犬の代わりに猪の石像の雌雄一対が相　対峙している。

それは清麻呂が配流になって大隅国へ向かう途中、神託を授かった宇佐八幡宮に御礼参りに行こうとすると、どこからともなく突然三百頭の猪が現れ、宇佐八幡宮までの十里の道のりを無事に案内したことに由来している。

神護寺(京都市右京区梅ケ畑高雄町)

○平安京造営大夫であった清麻呂が建てた高雄山寺と河内国に建立した神願寺(じんがんじ)を合併し、天長元年(８２４)「神護国祚(じんごこくそ)真言寺(しんごんじ)」となった。

八幡神の御加護によって国家安泰を祈願する真言の寺という意味である。「神護」は年号である。

○平安仏教を担ったとされる最澄の天台宗と空海の真言宗の最盛期の舞台となったのがこの神護寺の前身である高雄山寺であり、そのきっかけを作り、護り、育てたのが清麻呂をはじめとする和気氏である。我が国の仏教史上最も重要な名刹である。

〇神護寺の「金堂」の御本尊国宝「薬師如来立像」は１６９．６㎝ながらも鋭い眼光、きりりと引き締まった口、円く突き出された顎(あご)、盛上った頭頂部、腰より下半身が太く、ドレープの線が深く美しい等々京都の仏像の中でも是非一度は見ておきたい一つである。

他の像とは違って圧倒的に力強いこの像は清麻呂が道鏡の怨念を鎮めさせるためだとも言われている。

○神護寺の「金堂」「多宝塔」「和気清麻呂公霊廟」等は尾道出身の実業家山口玄洞氏の寄進によるものである。